記号論と日常生活

記号論だけにかぎったことではないのだが
あるものの見方、理論が、どのように私達の具体的な日常とつながっているのか
もっと具体的に言えば、私達の苦しみの解決と結びつくのか、よくわからないことがある
    
唯名論実在論
空や縁生 中観論や縁生論
記号論写像
言語学
      
竹田青嗣さんの著作をよんでいると、日常とのつながりが見えてくる
      
例えば、ちくま学芸文庫現代思想の冒険」文庫版の42ページに
     
<こういった言語の恣意性ということがらは、次のような重要な観点をわたしたちにもたらす。
それは、つまり、言葉というものは、すでに客観的に存在する事物の秩序に、わたしたちが記号によって名前をつけていったものではなく、むしろ、事物の秩序とは、人間が言葉によって編み上げたものにほかならない、という見方である。>
       
<(言葉は客観的な事物の秩序に名前=記号を与えたものだとする「言語名称観」)の見方が、根本的にひっくり返されることになった>
 
哲学や思想の世界や専門家の間では、言語の恣意性は常識かもしれないが、
そうでない人々の間では、やはり、「言語名称観」が主だと思う
 
(言葉になる以前の)本音とか本心あるいは真心とかいうものが心の奥底にあって、それを言葉=記号で表現する(写像する)と思っている人が多いように思う。
 
そういう人は、「私は、真心を以って、あなたのことを思い発言(行動)している。なのにあなたは、私の真心を理解しないで、表現に反応する」といって腹を立てたりする。
 
つまり、言葉=記号による表現以前に真心というものが存在しているという前提したりする
(真心以外にも、心の傷とか、性衝動とか無意識とかもそうだ)
 
「愛の鞭」なんていうのもこれに近い 
 
すでに両者に「愛の鞭」という文化が共有されていたならば、「愛の鞭」という現象も可能だろうけど
共有がない場合は、叩かれると痛い。
         
<客観的な事物の秩序(実在の秩序)があり、それを言葉が呼び当てるのではなく、むしろ人間の言語行為が、いわば網の目のように絶えずこの秩序を作り上げており、しかもまた絶えずそれを編み変えていくのだ>45頁
 
しかし、私自身を含めて、言葉がおろそかになっているように思う