不生不滅 瞑想による<実存的な苦しみ・死>の乗り越え方

なんやかんや言っても、「<時間は一方向に流れている>ということは、変えようがない」と思っていました
 
つまり、「諸行無常」「生きる果てには、死が待っていることは揺ぎ無い」と思っていました。
だからこそ、「<一期一会>の心構えで生きよう」などと決心したことがあります
 
織田信長は、戦いの前に幸若舞の敦盛を、謡いながら舞います
「人間五十年、下天の内を較ぶれば 夢幻のごとくなり
 一度生を受け滅せぬ者のあるべきか」
 
  
瞑想を続けていると
時間は確かに一方向に流れているようだけど、そればかりでもないと感じるようになりました
  
進化論的な神秘家(???)なら、
「世界は、理想に向けて、完成に向けて、進化している
我々の魂も、輪廻転生して成長しているのだ」というかもしれません
 
(「わが宗教の信徒だけが、進歩している、転生できる、他は滅びる」といっている宗教グループもあるようです)
そういった考え方も、時間は一方向に流れているという捉え方です。
 
瞑想を続けていると
世界は、変化して止まないが、通時的にも、地理的にも、全体が繋がっていて、
今ここの一瞬一瞬が、永遠なのだ、奇跡なのだ、恩寵なのだという感じがするのです
   
 
永遠、奇跡、恩寵などという言葉を使うと
今現実に色んな理不尽なことや不条理なことが起こっているではないかという声がします
 
理不尽なことや不条理なことがあってもやはり、
存在すること、感じること、考えること、生きること自体が、奇跡だと感じるのです
 
戦争など無いほうがいいことなど、決まりきっています
 
高校生の頃、
「働きに応じた富の分配の社会から
必要に応じた富の分配の社会へ、社会も人間も進化すれば戦いはなくなる、
社会はその方向へ進化しているのだ」
と信じていた時期があります。
 
文明社会の歴史を振り返ると、これまで、
地球上のどこにも戦いの無い時代など無かったのだろうし
ここ数十年のうちにそういう時代が来るとも思えません
 
混沌とした時代、不条理な状況の中で
それでも、命を輝かす生き方は可能だと思うのです
 
般若心経に言います
 
無無明亦無無明尽
 
時間は一方向に流れているかもしれないが
時間の流れにも、論理階型があるように思い、感じるのです
 
一瞬一瞬が永遠でありながら、その全体としては、一方向に流れ
一方向に流れているようでありながら、その一つ上のレベルから見れば
それもまた永遠の諸相のうちの一つ
 
西欧諸国の植民地政策や、日本の支配の狭間で
インド独立やベトナム独立を願い、時代に翻弄された人々
 
ポルポト政権下で、死んでいった民衆
 
自分の死も、永遠の諸相のうちの一つだと感じながら旅立っていた人がいただろうと思います。
 
ただ、うっかりしていると、目の前のことに押し流されるというのが実情