つながりの中で生きる

k1s2007-11-09

「いのちのつながりの中で生きる」
という文章は、誰もが、普通に使う文章だと思います
「つながりの中で生きる」という表現になれば、All As One の訳語として、
ひとつのテーマとして、使われることがあるようです。
 
これから述べることは
そういったテーマで開催されるセミナーの内容について述べようとしているのではありません
 
「つながり」とか「つながる」という言葉の意味を考えてみたいのです
 
何の気なしに、私達は日常的に「つながり、つながる」という言葉を使いますが、
「つながる、つながり」とはどういうことをいうのでしょう
どういうときに、「ああつながっている」と感じるのでしょう
 
いのちといのちのつながりというとき、具体的には
私とあなた、私と誰か、私と自然界とのつながりを言っているのだと思います
 
ここにレゴというおもちゃがあります
ばらばらにおいてあるときはつながってなくて、凸が凹にはさまっている時はつながっている?
米びつの米はつながってなくて、おにぎりの米はつながっていて、更に餅ならば、くっついている?
藁縄の藁同士は、つながっているの?つながっていないの?
右手と左手はつながっていますよね
富士山と浅間山はつながっていますか?
太平洋と大西洋は?
利根川と太平洋は? じゃ利根川とインド洋は、つながってますか?

123456789はつながっているの?じゃ、2468は?1.4.9.16.25.は?
液体の水と凍った水とどっちがつながっているのだろう? 分子的に、全体的に
からだとこころは? 顕在意識と潜在意識は?
 
つながっている、つながっていないの判断は、どうやら主観(認識)や文化の問題のようです

それと、これまで何度も話題にしてきたように
名称はそのまま、実在を指し示しているというものの見方は
つながりを見失いやすいように思います

ベイトソンが 「論理階型」logical typesについていっているように
ものの名前は名づけられたものとは違います。
ものの名前は、名づけられたものより一段高い、別の論理階型に属します

稲の茎と葉と穂のつながり方と、稲藁縄の藁と藁のつながり方は
つながるという言葉は同じでも、つながり方は違うと思います
 
つながっているけど、つながっていない
つながっていないけど、つながっている
そういうことが、いたるところで見出せます
 
あなたとわたし
つながっているけど、つながっていない
つながっていないけど、既につながっている
 
笑う門には福来る
つながっていないと認識するとき、つながっていなくて
つながっていると認識するとき、つながっている
というつながりかたもあるようだし
 
つながっていないと思っていても、つながっているというつながりもあるようです