名前を覚えない

植物と虫の名前を覚えない自然観察会という観察会を
これまで環境省の宇久井ビジターセンターで行ってきた
 
どうして「名前を覚えない」か
別に名前を覚えることを否定しているのではなく
逆に、丁寧に相手を知りたいから
 
私達は、この世に生まれてきて
あるものに対して、それが何であるか、どのようなものであるかを知る為に
名前を先ず覚えるのではなく
それに触れたり、匂いを嗅いだり、他のものとの関係、差異を探ったりして
そのものとそれ以外のものとの境界を設定したり、関係を知っていったりしたのではなかろうか
 
もちろん名前を覚えるには、差異を見出しているから覚えるのだろうけど
親の側も
大雑把な差異をもとに、次々名前を覚えさせようとする
特に、原初的な感覚であろう触感や固有感にもとづく差異は、重視されなくなるように思う
 
聴覚の刺激や視覚の刺激は、直接そのものに触れなくても感じることができるが
触覚や固有覚は、触れていないと味わえない
視覚にしても、より細かな差異は、接近しないと見えてこない
 
「触れ合う」とか「一体感」という言葉が示すように
それらを実感するには、触覚の情報が大きく影響するように思う
 
しかし、感覚というのは使っていないと衰えるように思う
触感も然り
 
昨日はスヌーズレンのことを書いたが、
大人になっても、すべての人にとって、スヌーズレンのような感覚体験は大切であると思う
 
いうまでもないことだが
思い切り抱きしめるという表現があるが
愛しているからといって、字面どおり思いっきり抱きしめたら、相手は痛がるだろう
 
接骨院にタマちゃんという猫が遊びに来る
しょっちゅういるので、多くの人は我が家の猫だと思っているが
通学途中の小学生が、猫と仲良くなりたくて、近づいて抱っこしようとする
 
しかし、その近づき方、近づけたとしても、その抱き方が、乱暴な子が案外多い
 
人と猫の関係だけでなく、人と人の関係でも、同じようなことが起こっているように思う