「私が変われば、世界が変わる」?!

「私が変われば世界が変わる、世界が変われば私が変わる」
という文章を私も時々書く
 
ところが、この文章、意味内容を色々解釈できる。

私達が日常使う言葉は、論理学で使うときほどの厳密な使用をしないからだ
 
「変わる」という言葉が先ず、あいまい。
 
私が変わろうが変わるまいが、世界は常に変わっている。
私もまた、日々変わっている
 
そのことを知っておきながら
「昨日と同じ朝が始まった」と思ったり
久しぶりに会った友達に「変わってないね」と言ったりする
 
私の「どこ」が「どのように」変わったら、世界の「どこ」が「どのように」変わるのかと
厳密に考えずに、「私が変われば世界が変わる」などと言ったりする
 
「世界」という言葉もあいまい
客観世界と主観が捉えた世界があるとして、客観世界そのものを認識できるかどうか
 
「私と世界」との関係もあいまい
あるときは、「世界と私は連動している」と観て、あるときは対立していると見たりする

そもそも、世界も私も常に変わっている
生きるということは、その変化を、「自分」の都合のいいように変えようとすること
変わらないというのは、自分の思うようには変わらないということ 
いったい、私は世界のどこをどのように変えたいのだろう?
 
老いたくないといっても、老いていく
病気にはなりたくないが、なったりする
死にたくないが、やがて死ぬだろう
生きる為には、食べなくてはならない
 
愛する人ともやがては別れ
世間の中には、会いたくない人も居る

変えられそうにないことを変えようとして苦しみ
変える必要もないことを変えなくちゃと苦しんだりする
 
と同時に、変えられるのに変えずにいて苦しんでいたりする
変わっていくものを、変わらずにいてと願い苦しんだりする

でやっぱり、私が変わる、ならば、世界は変わる
私と世界は、変わり続けている
 
花は咲き、花は枯れ、私はそれを絵にし、歌にする