精神と自然 地図は土地そのものではなく、ものの名前は名づけられた

「テーブルの上に、<果物>があるね。 右側にある果物は何?」
「りんご」
「じゃ、左側にある果物は?」
「みかん」
 
「今の会話でさ、<ものの名前は名づけられたものではない>ってことわかった?」
「わかったような、わからなかったような。小学生にはわからないだろうね」
  
「じゃ、別の <<りんご>> と <<みかん>> をテーブルにおいてみるよ。
最初テーブルにあった<<りんご>>は、<<<ふじ>>>で、<<みかん>>は<<<うんしゅう>>>だね。
これ、<<<紅玉>>>っていう<<りんご>>、こっちは<<<ポンカン>>>という<<みかん>>
 更にね、もう一個<<<紅玉>>>と<<<ポンカン>>>を置くよ
 
同じ<果物>だけど、<<りんご>>と<<みかん>>は違う
同じ<<りんご>>だけど、<<<フジ>>>と<<<紅玉>>>は違う
 
同じ<<<紅玉>>>だけど、こっちの紅玉とあっちの紅玉は違う」
  
「ものの名前は、名づけられたものそのものではない」
 
禅宗なんかではね、昔から、<言葉は月を指差す指である>
ってよくいってきたよ。」
 
「ところが、そういいながら、
指は指そのものをあらわしている、月は月そのものをさしていると思っている人がいたりして、単純じゃないね。
本質って言葉だって、言葉だもんね。」

「言葉では本質を表せない、ということについては一致していても
 だから、私達は本質なんて知りようがないと主張する人と、言葉以外で知ることが出来るという人との間で、ここ数百年以上は論争が続いているしね。」
 
「ともかく、地図と土地そのものは違う」
 
「で、昨日も聞いたけど、そのことと、私達の日常とどう関わるの?」
 
「例えば、<こころ><わたし>も名詞、名前だね
名前は、名づけられたものそのものではない
 
もっと具体的な話をするとね
がんの末期の人の介護したことある?
痛みの程度はその人によって違ったりするけれど
痛い時にはね、シーツの皺とか、浴衣の縫い目が肌に当たって痛かったりするんだ
そんな時どうする?」
 
「痛み一般について、話し合うよりは、エアマットに取り替えたりするね」