「差異」について <同じ>とは?<ちがう>とは?

 いつもの朝も、臨終の朝も
 どちらも、一回性の朝
 
 「ものの名前は、名づけられたものとは違う」ベイトソン(精神の生態学
 
 私達は、いとも簡単に、<同じ>とか<ちがう>という言葉を使う。
 しかし、改めてその意味を問えば、なかなかむずかしい。
 
野菜と果物は違う
リンゴとナシは、果物として同じ
リンゴとナシはちがう、紅玉と王林は、リンゴとして同じ
紅玉と王林はちがう、山田さんちの紅玉と佐藤さんちの紅玉は、紅玉として同じ
山田さんちの紅玉と佐藤さんちの紅玉は、全然味が違う
山田さんちの紅玉でも、木の上のほうになる紅玉と日陰になる紅玉では違う
 
<同じ>という概念があって、<ちがう>という概念の意味が生まれる
<ちがう>という概念があって、<同じ>という概念の意味が生まれる
 
昨日の私と今日の私は、おなじではない、といってべつでもない
 
、 、 、 、 、 、 、 、 、
 
なぜこのようなことを問題にするか?
 
たとえば、セックスとジェンダーとか
男性と女性とどちらでもない性とか
「転生する主体はなにか?」とかを考える上で必要だから
 
世界の側に、<同じ><ちがう>があるのかどうか
私にはわからない
私が<同じ>とか<ちがう>と判断する
 
いえいえ
「判断する」という表現は
客観主義的、物理的、実在論的、要素論的、だ。
<おなじ>とか<ちがう>ということは、
全体の流れや関係性の中で、構築し、構築されるという表現のほうがいいだろう
 
同じだけど違う
違うけど同じ
これは、昨日の、ストカスティックや論理階型につながる考え
 
ああ、いっさいが流れていく (それでいて流れているわけではない)
 
決めごとが、ヒトを縛り
決めごとでヒトとヒトは、生かしあう
 
あなたとまた明日会えるかもしれない
それでいて、今日の朝は一回性の朝