テレパシーについて

「テレパシー」という言葉は小学生でも知っていて、ごく日常に使っている言葉だと思います。
 
 しかし、丁寧にテレパシーという言葉を定義してみようとすると、あいまいな定義で使っていることがわかります。
 
 一般的(国語表現的)には、通常の常識の通信手段を経ずに、自分の思いを誰かに伝えたり、誰かの思いを読み取ったり、感じたりすることをいいます。
  
 相手のことを「知る」、相手のことを「理解する」とはどういうことか、あまり丁寧に考えたことのない人にとっては、一般的(国語的)な説明で、納得することでしょう。
  
 しかし、「知る」とか「理解する」とはどういうことをいうのかを丁寧に考えてみると、テレパシーという言葉の定義の困難さを感じることでしょう。
  
 例えば、私の友人数人がある映画を見に行ったとします。
 そのとき私は遠くに離れていて、友人たちの心をテレパシーで読み取ろうとします。
  
「透視」ならば、友人たちとは関係なく、遠くはなれたところから、映画そのものを鑑賞することですが、「テレパシー」となると、その映画を観ている友人たちの思いを感じることです。
  
 私は友人たちの思いを、心拍数や筋肉の緊張(信号?)、脳内の電気信号といったことで感じるのでしょうか?音声にならない内言語で知るのでしょうか?あるいは別の記号表現によって知るのでしょうか?
  
 テレパシーにおいては、実際にそこで起こっていることと、それを認知することと、更にそれを表現することの間に、「乖離」はないと前提するのでしょうか?
 
 実際起きていることと、それを認知することと、更にそれを表現することの間に乖離がないとして、通信手段を介することなく直接それを感じることができる「テレパシー能力」がもし自分にあったとしたら、私はうるさくて、耳を塞ぐことでしょう。あるいはまぶしくて目を閉じるでしょう。
 (耳を両手で塞いだところで、その効果はありませんが)
  
私は、テレパシーを否定しているわけではありません。
「虫の知らせ」や「天啓」のような体験はいくつもしてきました。
  
ただ、「知る」とは「領る」であって、システムの中に組み込まれること、組み入ることであり、
たった今このときにおいて、私は、「領っており」「領られている」と思っています。
  
人間のからだは約60兆の細胞からなっているといわれています。
ひとつのシステムを作っています。
今も、こうしてキーボードをたたいているわけですが、
その動きの(筋肉と筋肉の、細胞と細胞の)協調性、共時性を思うととても不思議です。