ぼく達はパブロフの犬じゃない

私達は、生きる為に、色々な行動を起こします。
色々な行動の成り立ちを説明する時、単純にモデル化して説明するやり方があります。
 その一つは、<行動とは、「刺激に対しての反応」の複雑な組み合わせである>というモデルだと思います。
<入力(感覚器官)→ブラックボックス(脳)→出力(筋肉)>と単純化してもいいかもしれません。
 
私達は、五感という言葉に馴染みが深いです。
五感とは、広辞苑によると、
<視・聴・臭・味・触の五つの感覚、感覚の総称>
とあります。
また、感覚の説明として、
<視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚などがある>
と記述されています。
広辞苑ですら、五感でもって感覚の総称といってしまうのには、困ってしまいます。
第六感や、意識覚が入っていないということをいっているのではありません。
 
「固有覚」のことをいっています。
固有覚とは、筋における筋紡錘や腱器官のことで、筋の緊張状態を知る感覚で、これがあるから、私達は、自分の手が今何処にあって、自分が今どんな姿勢であるかを知ることができます。
 
私達は、対立する二項で物事を説明するやり方に慣れきっています。
出力と入力、求心と遠心、肉体と精神など一杯あります。
 
そんな私達は、感覚と運動も別々な二項に分けがちです。
刺激を受け取る感覚器官(筋肉を含まない)と、反応の表現としての運動器官(筋肉)と分けがちです。
 
しかし、感覚と運動とは、入力と出力といった別のもの、二項であるものではありません。
 
こんな実験をしました。
先ず一個のポンカンを目で見てもらいます。
その後、目を閉じてもらい、テーブルの上にポンカンを幾つか並べ、手で触れて、先程見せたポンカンを選び出してもらうのです。
 
被験者は、先程のポンカンを選び出す為、いろんな触れ方(運動)をします。
このとき、運動すなわち感覚受容なのです。
 
私達が、何かものが見えるというときも、虹彩を動かすのは筋肉ですし、水晶体の厚みを変えるのも筋肉です。やはり、運動によって感覚受容が可能です。
 
運動すなわち感覚受容というものごとの捉え方、運動は短なる反応ではないというものの見方と、わたしたちの日常生活とどのような関係があるでしょうか。
 
例えば、リハビリの現場で変わってきます。
私は接骨院を営んでいますが、毎日人に触れます。人の肩や腕に触れるということは、同時に肩や腕によって、私の掌が触れられている、そこでコミュニケーションしているということです。
 脳梗塞後のリハビリとは、一日の一部分の時間分だけ、理学療法士さんが、関節拘縮を防ぐ為に関節を動かしたりすることだけでなく、例え意識がはっきりしていなくとも、おしめの交換時の触れあいもリハビリであり、学習であり、コミュニケーションであるということになります。
 
固有覚を除いた五感だけを、感覚の総称と思っていると、感じる世界が狭くなってしまいます。
 
理学療法は私の専門外ですが、リハビリの世界でも、要素還元論的なリハビリから、全体論的なリハビリへと、ゆったりとしたパラダイムシフトが起こっているようです。