国家の品格 論理を捨てるのではなく、論理を見極め、論理を超える
厳密な話し合い、意思疎通を望む時、「言葉の定義」から始める。
同じ言葉を使っていても、その意味内容が、人によって違っていたりするからだ。
「愛する」なんて言葉は、とてもあいまいな言葉だ。
言葉を定義する時、「言葉で言葉を定義しようとすれば」堂々巡りに行き着く。
(操作的定義はこの際省略)
どうしても、定義なしで使用する言葉(基礎語とか無定義語と言う)を出発点にして、(定義しなくても通じる言葉だろうと、信じ、あるいは約束して)言葉を定義したり、言葉を使用するしかないことを、言葉の定義について、真面目に考えたことのある人は知っている。
論理を追求していけば、非論理を前提として、論理が成り立っていると言うことに気づく
科学的法則というものを、私達は、言葉で表現する。
このコトバと言うものは、元々そんな風に、無定義語を前提として成り立っている。
だから、科学と言うものは、世界の中に真理を見い出すものではなく
言葉でもって、世界を説明するものだ
法則は真理ではなく、そう捉えてみると、予測と制御が、より可能、より有効になる説明のことだ
法然にしても、親鸞にしても、きっちり論理を突き詰めた人だと思う
論理を突き詰めた上で、論理を超えるのか
それとも、日本人というのは、論理を突き詰めるというのは不得意なのか
私にはよくわからない
でも少なくとも私自身について言えば、論理を捨てようとは思わない
そして、論理だけで救われるとも思っていない