来年1月の観察会の予定原稿

第6回 「植物と虫の名前を覚えない自然観察会」 2007年1月7日 予定原稿
 
○そもそも、なぜ、「観察」をするのか?
 
  <私たち人間は一人では生きていけません。>
  もし、食べ物も、着るものも、家も、明日から一人で作って、生きていきなさいといわれたら、到底無理です。人は、人の間で生きるから、「人間」です。
 
  同じく、地球上に、人間(人類)しか生物がいないとすれば、人間は生きていけません。人間は、空気も作れませんし、水をきれいにすることもできません。土を耕すこともできません。
 食料、建築材料、衣料、燃料など、私達が生きていくのに必要なものは、自然からの恵みに頼っています。
 
 人間は、自然に働きかけることによって生きていくことができます。どのような働きかけをすればいいのか、その判断のためには、自然のこと、人間と自然との「関係」を知らねばなりません。そこで、私たち人間は、自然そして自分自身を観察します。
 
 「なぜ観察するのか」という質問以前に、生きるということそのものが、「観察」によって成り立っています。
 
(「観察」という言葉には、「自分と対象を分ける」「対象の外にいる自分」という考え方がすでに入り込んでいるように思います。)
 
(「観察するという行為を観察する」(メタ観察)ことによって、観察の限界、思い込みを知ることができます。)
 
(つまり、観察によって相手を知ろうとし、又、観察を観察することによって、相手を知るということの限界を知るわけです)
 
○自然への働きかけ方 自然に対する考え方
 
 ここ300年くらいの間、私たち人間(主にヨーロッパ社会の人間)は、魂とか精神というのは、「人間」だけにあるのだと考えて、自然に接してきました。人間と自然を対立視し、人間が万物の霊長としてきました。人間の生存のために自然はあるのだと考えてきました。
 
 また、人間にも実は、「心」も「魂」もない、あるのは物質を基礎とした物理的、生理的現象だけだ、という考え方の人もいます。
 心とか魂も、脳細胞という物質の働きだという考え方です。(唯物主義や分子生物学
 
 そういった考え対して、自然界にも、魂(アニマ)があるのだ、というものの見方を、アニミズムといいます。そして、アニミズムを復活させようとする人々がいます。
 
 アニミズム復活派の人々の中にも、その考え方は、色々あります。
 「もの」にも、地球にも魂がある、とする復活派がひとつの例です。
地震津波は、人類への警告や罰として発生していると考えたりする人もいます。)
 
 しかし、元々アニミズムは、人間と同じように、自然界にも魂があるのだろうと、自己像を自然に投影したものですから、自己自身の矛盾や分裂観、自然との対立観、要素論を投影する可能性があります。
 (個人として自然どう向き合うか、どう関わるかといった次元では、問題がありませんが、複数の人間が、共同で自然とどう関わるかの話し合いにおいて、共通の基盤に立てる人と、立てない人がいたりします。地鎮祭をしたからといって、耐震強度の足らない建物は安全とはいえません。物理法則による説明も、無視することの出来ない説明方法です)
 
 自己を投影しない自然観として「トーテミズム」があります。
 自然の有様を、自己や人間社会に投影します。(「生と死のサイクル」や「多様性」)
 
 分析科学、アニミズム、トーテミズムそれらを総合し、お互いに話が通じ合えるような
 ホリスティック、全体的、複雑系な自然観をこの観察会は目指しています。
グレゴリー・ベイトソンのいう”精神”・システム理論・階層理論・フレームワーク・多重構造)
  
○ なぜ、言葉にこだわり続けるか?
 
  名前を覚えない自然観察会は、第一回目より、野山に出かける以前に、言葉の問題についてこだわってきました。(例えば、朝顔の蔓は右巻きか左巻きか?を考えたように)
 
 最初に言いましたように、<私たち人間は一人では生きていけません>。
 
 私達が自然に働きかけるとき、その行為が、自己責任として、個人の課題、個人の自由の領域の事柄である場合と、共同の課題になる場合があると思います。(川上で洗濯すると、その洗濯液は川下に流れます)
 
 ある行為が、個人の領域の事柄なのか、共同の課題の事柄なのか、他者や自然に影響はないのか、そのことについて、私達は、「言葉」を使って、相手に通じるように、話し合わねばなりません。
 又、共同の行為として自然に働きかけるとき、どういう行動を選択するのか、お互いに話が通じるように、話し合わねばなりません。(例えば、高層マンションを建設するとき、地鎮祭は必要なのか必要でないのか)
 
 この「言葉を使って、相手に通じるように話し合う」ということが、案外難しいことです。
 その為、「言葉の働きや限界について」「言葉の定義や無定義用語」「クラスとメンバーの違い」「記号と内容の対応の恣意性」の確認作業からはじめたわけです。
 
☆噂を信じちゃいけないよ セイダカアワダチソウは、花粉症の原因にはなりません。
残念なことに、私たち日本人は、言葉の使い方について、人と人が話し合いをするときのルールについて、学校であまり丁寧に教わっていません。
 そこで、ルールを確認しつつ、観察会を進めています。
 
 
○ 「名前を覚えない自然観察会」のという名前の観察会にした訳
 
  名前を覚えることを否定しているのではありません。名前を覚える以前に、「名前」について、「名前を付けるということ」について、考えたいと思っています。
 
 以下の表は、右と左で対立しているという意味ではありません。
 同列上下で関連しているものもあれば、ないものもあります。
 第一には、私自身が考えをまとめる上で便利なように、便宜上二つに分けています。
 対立というよりは並立、あるいは階層が違っています。
 
 以下の表を使って、当日解説します。
 目指すところは、宇久井半島で安らぐことです
 左右二つの目で見るから、立体の像が得られます。(冗長性、階層性)
 
メンバー (なすび・きゅうり)        | クラス (野菜)
幾何学                     |      代数学
有機全体論                |      要素集合論
認識論                     |      存在論
名づけられたもの              |      名前
シンハラ語サンスクリット語       |       日本語、英語
 (それに りんご性がある)        |         (それは りんごだ)
 (風に カーテンが揺れている)     |         (風が カーテンを揺らす)
韓国医学(チャングムの誓い)       |       西洋医学
断定しない                   |       断定する
月間降雨量                  |       年間平均降雨量
月                        |       月を指す指
実際の土地                  |       地図
角の立たない智慧              |       棹差して流されない情
 
○クラスとメンバーはちがいます。
花屋さんは、「花」を売るところですが、<花>を売ってはいません。
薬屋さんは、「薬」を売るところですが、<薬>を売ってはいません。
百貨店には色んなものを売るところですが、<百貨>を売ってはいません。
 同じ花という言葉であっても、「クラス」として使用する「花」と、<メンバー>として使用する<花>の違いを自覚して使用しないと、話し合いは混乱します。
 
癌細胞が体内にあるとしても、「分をわきまえ、増殖しなくなった癌細胞」は、癌細胞なのでしょうか?
○ 「心」とはなんだろう、「精神」とはなんだろう、「魂」とはなんだろう
○ 「生命」とはなんだろう、「生きる」とはなんだろう、「死ぬ」とはなんだろう
○ 「私」とはなんだろう?
 
 画用紙に「花」を描くことにします。漢字の「花」を書くことは出来ても、「花」を描くことは出来ません。実際に描くのは、具体的な<スミレ>や<タンポポ>です。
 
 では、「スミレ」や「タンポポ」を描くことが出来るでしょうか?「スミレ」や「タンポポ」を描こうとして、実際に画用紙に描くのは<めしべ>であったり<花びら>や<葉っぱ>です。
 同じく 「めしべ」や「花びら」を描こうとしても、実際に画用紙に描くのは、<線>であったり、<色>です。(「差異」を元に、私達が、めしべ、スミレ、花を組み立てている?)
 
「心」や「精神」や「魂」や「生命」や「生死」や「私」にとって、
<スミレ>や<タンポポ>や<めしべ><花びら><線><色><<差異>>にあたるものはなんなのでしょう?
「心」や「生命」や「私」の絵を描くとき、あなたは画用紙に、具体的に何を描きますか?
 
 <からだ><体形><顔>?<皮膚><細胞><遺伝子>?<喜怒哀楽>?
<行動><立居振舞>?<表情><声、語調>?<<筆圧やタッチ>>??
 
森の中に出かけてみて、「生」と「死」を見つけて、画用紙に描いてみましょう。
森の中の生と死は、区切られているでしょうか?閉じられているでしょうか?
「生」と「死」のサイクルがあって、「生命」なのではないでしょうか。(トーテミズム)
 
皮膚や粘膜や皮で、私達生命体はお互い同士、「区切られて」います。
細胞同士も、細胞膜で「区切られて」います。「区切られて」はいても、「閉じている」訳ではありません。「閉じてしまえ」ば、死んでしまいます。  (気・血・水・ことば・情報)
 
「あなた」と「わたし」、「わたし」と「すみれ」、「葉」と「枝」、「心」と「心」、「生」と「死」
どこかで区切られているでしょう。でも、閉じているわけではありません。
 
(☆ 「不死は生を失うことだ…死を拒絶することは生を拒絶する事なのだぞ」
   宮崎吾郎 ゲド戦記より 
 ☆ 「生」があるゆえに「死」がある 仏陀  「死」があるがゆえに「生」がある 森林)
 
「私」は「万物の霊長」でしょうか?それとも「大いなる生命」の一部なのでしょうか?
<めしべ>や<おしべ>、<細胞><血液>なのでしょうか?
「精神」は「私」の一部なのでしょうか?それとも「私」が「大いなる精神」の一部なのでしょうか?<生きている>とは、区切られていても、<開いていること>ではないでしょうか?
 
心を<開く>とは?   歩禅(歩く禅) 慈悲(生きとし生けるもののうえに幸いあれ)
 心を観察し「不快」な時は、閉じられています。「不苦不快・高慢な」時も、閉じていますもし「快」であってもそれを独り「貪って」いれば、開かれていません。 開いてますか?