言葉と世界 八百屋に野菜は売っていない 百貨店に百貨は売っていな

 グレゴリー・ベイトソンは、著書の中でこう語っています。
 
ものの名前は名づけられたものとは違う。
ものの名前は名づけられたものより一段高い、別の論理階型に属する。
  
クラスはメンバーより一段高い、別の論理階型に属する。
  
 グレゴリー・ベイトソンの著作を読まずに、いきなり以上の文章を聞いて、すぐに理解する人は少ないと思います。
  
 しかし、一度、ものの名前と名づけられたものとは違うことを理解して、再び世界を見渡してみると、世界が今まで以上に鮮明に見えたりします。
  
 例えば、川端茅舎の句に
「青蛙ぱっちり金の瞼かな」という句があります。
  
ものの名前は名づけられたものとは違うという本来の意味は
川端茅舎の目の前にいる生命体は、「青蛙」というメンバーに属するという意味でしょうが
ここでは、「青蛙」をクラスを表す言葉 「瞼」をメンバーと捉えることもできます。
(もちろん瞼もものの名前だから、より一段低いものをメンバーとするクラスでもあります)
  
ロボットのアトム君は、お母さんに
「今夜カレーを作るので野菜を買ってきて」と頼まれます。
アトム君はコンピューターで検索します。
「野菜は、八百屋さんで売っている」
そこで、アトム君は八百屋さんに言ってこういいます。
「八百屋のおじさん。野菜ください」
八百屋のおじさんは言います。
「ここは確かに八百屋だけど、<野菜>は売っていないよ」
アトム君「?????」
 
野菜でなくとも<花>でも同じことが言えます
「花屋さんには<花>を売っていない?????」
「文房具屋に<文房具>は売っていない???」
「百貨店に<百貨>は売っていない」なら、少しわかるかな。
  
この世に<スミレ>はあっても、<花>はない
いやいや、この世に<スミレ>もない あるのは目の前にある<スミレと名づけられたもの>
例えば、「花の絵を描いてください」といわれても「花」を描きようがない
<スミレ>を描こうにも<スミレ>そのものは描けず
かつて見たことがあるか、現に今目の前にある<スミレと名づけられたもの>なら描ける
<名づけられたもの>ではなく、めしべ、花びら、萼
いやいや、めしべや花びらや萼ではなく、線、色、明暗
どこまでいっても、言葉・名前は名づけられたものとは違う
 
「和田幸男」は名前であって、名づけられたものとは違う
「自我」「心」「魂」「玉響」も、名前であって、名づけられたものとは違う
 
名前を知っているだけでは、絵をかけない
俳句はどうだろう 名前を知っているだけで、俳句は詠えるか


流れ行く大根の葉の早さかな  高浜虚子
クラスの名前を使って、メタクラスを表現している
 
大根引 大根で道を教へけり  一茶
ひんぬいた大根で道をおしへられ 江戸川柳
 
メタクラス クラス メンバーという視点、アフォーダンスという視点で、
川柳と俳句の違い
作品の批評を行うと面白いと思うが、本題とずれるので、今日はしない
 
冬萌えや鉄路跨げば鉄匂ふ 山田晩水
 
全体というのも言葉だけど
全体の中に私がいる 
そして「私」は名前 名づけられたものとは違う