絵を描くことと瞑想と

私は毎月一回、私の住んでいる地域にある環境省の宇久井ビジターセンターでインタープリターをしています。
「植物と虫の名前を覚えない自然観察会」と名づけ、これまで14回開催してきました。
「生命の文脈を読む」ことをテーマにしています。
    
前回は、自然観察には欠かせないスケッチをとりあげました。
  
その中で、先ずこれまでの経験、記憶を総動員して、蟹の絵を描いてもらい
その後で、実際に生きている蟹を見ながらスケッチしました。
  
何度か蟹の絵を描いている人以外は、目の前に蟹がない状態で蟹を描くと、イラスト風の蟹になってしまいます
  
甲羅を四角形に描いて、マッチ棒の先のような目を、四角形の上辺に描きこみ、その目の横に、双葉のようなはさみ脚を描きます。
  
世界の中から、蟹以外のものたちの中から蟹を切り出すには、それで十分といえます。
  
しかしその絵からは、蟹の体の構造は大雑把にしか見えてきません。
大雑把にしか見ていないので、そのような絵しかかけません。
  
蟹を蟹以外のものから切り取る為でなく、例えば、脚全体から、腕節を切り出す為には、もっと丁寧に見なくてはなりません。
  
これって、自分の心を見つめるときと同じ過程じゃないかと思うのです。
  
自分のこころを、自分以外の人々のこころから区別するときには、イラスト風の自分、イラスト風の観察で十分であって、心の中の構造、信念群と信念群、信念と信念の関係を観る為には、より丁寧な観察が必要ということ、と同じことのように思えます。
   
では、絵を描くとは、細密画を目指すことなのかというと、そうでもないと思っています。
  
うろ覚えの知識ですが
かつて写真のない時代の博物学者さんたちは、細密な絵を描きました。一見、線画に見える絵もよく観察すると、輪郭線で描いていないそうです。そして、たいていの博物学者さんたちは、細かく細かく絵を描きすぎて、目を悪くしたそうです。
  
観察会を始めてから知ったことなのですが、
スミレの種は鞘がはじけて飛び散りますが、その種には、蟻の好物であるエライオソームがくっついていて
蟻は、一旦巣に運んでそれを食べ、食べ終わったあと、巣の外へスミレの種を捨てるのです。
そうやって、種はもっと広くへ分布していきます。
  
私は、本でこのことを知ってから、後でスミレの種を蟻の通るところへ並べて確認しましたが、一番最初にそれを発見した人は、「よく観る人」だったんだなと思います。
  
蟻の脚から、腿節や脛節を見出すことだけにこだわってしまうと、蟻とスミレの関係が見えてこないでしょうけど、
蟻の腿節を切り取ろうとする人なら、何らかのきっかけで、蟻とスミレの関係にも気づくようになるのではないかと思っています。
 
蟻とスミレの関係もほんの一例に過ぎず、まだまだ気付いていない、観えていないことがいっぱいあると日々感じています。(例えば、イヌビワとイヌビワコバチの関係も最近知りました。これまで何十年もイヌビワを観てきたのに。)
   
「観えていないなあ、観えていないなあ」といいながら、絵を描いています。