なんとなく、「記憶」というものは自分の脳の中に保存されているような気になっていた。
又、パソコンといつも付き合っていると、短期記憶とか長期記憶という言葉が日常的になって、「脳を鍛える」とか「右脳・左脳」といった本も目に付く。
ところが、最近じっくり考えてみると、「記憶」というものがよくわからない。
「記憶が、脳の中に収められている」という考え方は、「要素論的」に感じる。
「全体論」や「システム論」や、「複雑系」の本を読み進む内に、「記憶」というものがよくわからなくなった。
そんな「揺らぎ」を味わう本として、
「アフォーダンス 新しい認知の理論」がある
又、その本に関連して
「意識とはなんだろうか」 という本がある
体力、知力のある人は
グレゴリー・ベイトソンの
「精神の生態学」を読まれるといいだろう
又、唯識派の仏教実践者達は、阿頼耶識というものを仮設するし
ヒンズーの世界やシュタイナーさん達は、アカーシャの記録、アカシックレコードというものを昔から述べている
何れの本も、すらすら読める本ではないし、阿頼耶識にしても、アカシックレコードにしても、深い深い瞑想実践から仮設されたものだ
記憶というものが、脳の中にあるのではなく、自分を含めたシステム全体の中にあると仮設すること
要素論の捉え方をやめることと
実際に「今日を生きること」とどんな関わりがあるか?
実に深い関わりがある
が、「万人にとって」とは言いがたい