習慣で食事すること、肌を触れ合わすことは止めたいですね

k1s2006-10-06

 できましたら、本文を読み始める前に、あなたが日常使っているガラスコップを目の前に置き、それからお読み下さいませ。
 
第4回 「植物と虫の名前を覚えない自然観察会」へのお誘い
 
 今、私の目の前に、ガラスのコップがあります。特別珍しいものではなく、喫茶店やレストランに入ると、まず最初に出てくるような、どこにでもある、普通のガラスコップです。
 
 接骨院で、日常的に十年以上使ってきました。イタリア製となっていますが、同じ形のものが十数個あります。おそらく大量生産されたものなので、世の中には、同じ形のものが、もっとあることでしょう。
 
 私達は、レストランに入って、このようなコップが、でてきたとしても、そのコップを、不思議に思ったり、感動したりは、普段は、おそらくしないでしょう。
 
 しかし私は、「私が、やがて必ずこの世から去るもの」と、頭だけでなく、からだで自覚するようになって、このどこにでもあるガラスコップが不思議でなりません。
 
 このような どこにでもある「この世の事物」に、いちいち感動したり、不思議がっていたのでは、「日常生活」が成り立たないので、一人密かに、不思議がり、感動しています。
 
「一体、このコップを、コップたらしめているのは、何なんだろう?」と自らに問い、そして「あること」を感じ、感動しているのです。
 
 どこにでもあるようなガラスコップですが、ガラスコップそのものが持っている力(自性力)でもって、今目の前にあるわけではありません。
 誰かがこの世に在らしめ、誰かがここに運んだのです。工場の機械が作ったにしても、又職人さんが作ったにしても、では工場の機械をこの世に在らしめ、職人さんをこの世に在らしめている力とは一体何なのでしょう?
 
 溶岩がガラス状に固まったものに、黒曜石があります。私達の遠い遠いご先祖さんたちは、それを刃物として使いました。
 紀元前5000年には、メソポタミアで、ガラス工芸が始まっていたそうです。
 一体どのような過程を経て、私達は、ガラスをこの世に在らしめる様になったのでしょう?

 そして今、どこにでもあるような一個のコップに、どれくらいの見えない縁、見えない力が働いているのでしょう?
 
 そして、「私が私であるために」「地球が地球である為に」「銀河が銀河であるために」どれくらいの縁が働いているのでしょう?
 
 「やがて必ず、私が私でなくなること」を感じつつ、一個のコップを、
一本の草を、一本の樹を、不思議に感じ、みつめています。
 
 「私」は、そして「あなた」は、「宇宙全体」が咲かせた花です。
 「宇宙の森全体」によって、搾り出された一滴の雫です。
 
 一時、私は「そのこと」を見失い、忘れてしまいました。
時々思い出すことはあっても、日常の忙しさと「習慣」の中で忘れがちです。
 
 「宇宙の無限の縁」「全ての思い」を受けて、今ここに咲いているのです。
 「全体との繋がりを忘れた私」の「欲」を満たす為に咲いているのではありません。
 
 「森」の中を歩けば、繋がりを思い出します。「無限の縁」を感じます。
 「アカーシャの記録」「阿頼耶識」に繋がります。
 
 さて、その上で、どんな花を咲かせましょうか?