わかるとは分かち合うこと

かつて読んだ本を、再び読み直している
先日浅田次郎氏の、「蒼穹の昴」を読了した。

次は、遠藤周作氏の「満潮の時刻」を読もうと思っている
満潮の時刻 (新潮文庫)

なぜ再び読む本に選んだかというと
遠藤周作氏の最期のことを思うからだ
遠藤周作氏は、73歳でなくなったが、
最後の3年半は、実に苦しい闘病生活であったらしい
そして最後の一年間は、殆ど口が聞けず、
夫人とは、手を握り合うことで、意思を伝え合ったという
 
私達夫婦が、そのような最後を迎えられるか
現時点では、難しく感じている
 
最近特に思うことだが、分かり合うとは、分かち合うことだと思っている
夫婦でいうなら、夫婦で、駕籠を担いだり、
大きな鋸で、二人力をあわせて、木挽きをするようなものだと思っている
 
先を担ぐものと、後を担ぐもの
入れ替わったりすることもあるだろうが、
二人とも先とか二人とも後ということはない
 
相手が押すときは、自分が引き
自分が押すときは、相手が引く
 
そうすることで、無事駕籠を担ぎ、木挽きが出来る
技術もいる、息も合わなくてはならない
 
一致することではなく、分かち合うこと
それがわかるということだと、私は思っている
 
駕籠に乗せるものは、年齢とともに変わっていったりする
子供はいつか巣立っていく
 
そしてやがて、必ず、死が二人を分かつ
 
私の死は、私の死であって
夫婦であろうと、長年の親しい友であろうと、
死と向き合う心情は、一致することが無く
絶対の孤独と思っている
 
わかりあうことも無く、分かり合えるはずも無い
と思っているのだが
こう言い切ってしまうと
逆に、相手をわかろうとすることを、放棄しているように聞こえてしまう
 
一致するというようなわかりあい方はできないが
分かち合うというわかり方はは出来るのだと思っている
 
最後は、夫婦どちらかの死を駕籠に乗せて、駕籠を担ぐ
 
どちらが先でどちらが後かはわからないが
それまでの夫婦の人生の駕籠の担ぎ方で
分かち合い方は違ってくるだろう
先棒のものが、殆ど一人で駕籠を担ぐことだってあるだろう
夫婦二人だけでなく、家族、友人も加わることもあろう
そして、神が見えない手で、担いでくれることもあろう
 
ともかく、いずれにせよ、先棒はしっかり担がなくてはならない