学習性無力感 学習性絶望感

小学生の頃、何の前振りもなくに、軽く
「大きくなったら、何になるの?」と尋ねてくる大人が嫌いだった
 
「大きくなったら何になるの?」という質問の意味は、たいていは、
「将来どのようにしてお金を<稼ぐ>の?」という質問で
私は、稼ぐ以前に「今の社会の在り様はこのままでいいのか」を考えたうえで
「将来どのような<仕事>につくか」について、話したいのであって
軽く尋ねることではない、と小学生の頃から思っていた。
 
小学生とはいえ、何で世の中にお金持ちと貧乏な家庭があるのかが疑問だったし、
能力あるものが、競争して、お金持ちになっていいんだ、という考えには、同意できなかった
 
「仕事」「職業」「稼ぐ」という言葉を使い分けてきた
 
私にとって、仕事とは、その漢字の如く、仕える事であって、
仕える先は、会社や、国家ではなく、「天」であった
 
「革命」とは、支配者が変わることではなく
天の意から外れた<人と人の関わり方>を変えることを意味した
 
私にとって天の意とは、競い合うことではなく、信じあい、
思い合うことであって、分かち合うことであった
 
私が今日、こんなことを言うのは、最近、孔子の事を思っているからだ
孔子は、世界歴史の超有名人ではあるが、
最近まで、裕福な家庭のお坊ちゃまだと思っていた
 
ところが、色んな説はあるものの、
幼くして両親をなくし、亦その両親は正式の結婚をしていたのではなく
野合して、孔子が生まれたという
 
下克上の状況の中で、「仁」を説き、流浪し
「人知らずして、慍らず」といった人
実際の孔子がどうだったのか、知る由もないが
私の中で、私の孔子が、息づき始めている
 
私にとって天の意とは、分かち合うことであるとは言ったが
それは、平等に分かち合うことではない
喜びを分かち合うことだ
 
スキナーという人が、生きがいについて、こういうことをいっている
「生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである」
行動理論の言葉を使っているので、行動理論を知らないヒトがいきなり聞いても
なんのこっちゃと思ってしまうだろうが、
 
莫大なお金や財産をもっていようが、亦、富が平等に分配されていようが、
それだけでは、生きがいにはならないということだ
 
行動理論の中に、学習性無力感、あるいは学習性絶望感という概念がある
普通、人間も動物も、困難に対面すると、回避努力をしたり、乗り越えようとしたりするが
何度も失敗してきたり、乗り越える課題が大きすぎると、努力しなくなることを言う
 
鬱を、この学習性無力感で説明したりするが、
鬱だけでなく、人を信じられなくなったり、詐欺や犯罪を起こすのもまた、
その人が、人を信じることに対して、無力感や、絶望感に陥っているからだと思う
 
人間の弱さを思うとき
いつの時代も、これからも、理想社会が実現されるとは思っていない
だからといって、人間とはこんなものさと、諦めることもしたくない
相手が変わるかどうか分からない、
変わらないかもしれない、難しいかもしれない、だからといって、
人への関わり方の態度を変えないでいよう、諦めないでいようとおもうのだ
(実際は、時々に迷い、判断を誤るが)
 
アウシュビッツで、ベトナムで、あるいは中国大陸で、カンボジア
慍むこと無く死んでいった人も多くいる
 
(よほど、気をつけていないと、知らない間に、自覚の無いまま、慍んでいたりする)
(文化装置のままに動いていたりする
(文化装置とは、例えば、人間の内面を理性と本能に分け
(理性を善、本能を悪としてレッテルを貼ったりすることだ