命の繋がり、見えていますか? 自分自身を信じていますか?

先日、那智勝浦町内にある足湯「海の湯」へ行ってみました。数人が座れる足湯が、三つあって、ひとつは、手も浸けられるようになっています。
 ところが、一番端にある足湯で、若いお母さんが二人、幼児を数人連れてきており、幼児は、裸ん坊になって、足湯の槽で、お湯の中に浸かり、水遊びをしていました。
 
 子ども達は、水を掛け合ったり、追いかけっこをして、隣の槽へ行ったりし、腰掛けになっているベンチや靴を脱ぐ為の床板は、水浸しです。靴を脱ごうにも、足が濡れるし、ベンチに腰掛けようもありません。
 
 若いお母さんが、その後どうするのか見ていると、子供のからだを、タオルで拭いて、靴脱ぎの板の上にそのまま絞っていました。濡れたベンチや床板を拭くでもなく、そのまま車に乗って帰ってしまいました。
 
 私は、持っていたタオルで、ベンチを拭きました。
 
 以前、近くの足湯「鮪の湯」でも、若いカップルが夕方、裸になって、足湯の浴槽に浸かっていたそうです。警察官がやってきて、注意したところ、若いカップルから、
「お風呂として使用してはいけないと表示していない」と反論されたと、聞きました。
 
 モラルとか常識というものは、元々、明文化されていません。明文化され、罰則規定を設けたりすると、それはマニュアルとか、法律とか言われます。
 
 足湯で子供達を遊ばせ、周囲を水浸しにしていたお母さん達にとって、公共施設で、何の後始末もせずに帰ることは、彼女達の間では、常識なのでしょう。
 私の常識と、彼女達の常識は違うのでしょう。
 
 となると、公共の場を運営していくには、「ここで子供に水浴びはさせないで下さい」あるいは「水浴びしてもいいですよ」と、はっきり文章で書かねばならないことになります。
 
 今回のこと以外でも、世代間によって、常識やモラルの中身が違うと感じることが、旧世代の人にとっては、多いのではないでしょうか?
 
 無論、旧世代のモラルの方が絶対正しいとはいえません。
 私自身、冠婚葬祭についての常識やモラルについて、旧世代の人からみると、苦言を呈されることをしているかもしれません。
 
 よく「時代の変化だから仕方ない」という声も聞きます。
 確かに、場面によっては、時代に関わらず個人の責任という場合もあるでしょうが、やはり、時代の変化と共に変わってしまうこともあるでしょう。
 
 田舎の暮らし、あるいは多くの人が、農漁業などの第一次産業に従事していた時代には、自分と他の命との繋がりが、感じやすかったと思います。自分の為した行為が、その後どのように自分に還ってくるか、実際見たり、味わったりすることが多かったでしょう。
 
 ところが、生活が近代化し、細かく分業され、ボタンひとつで何もかもが済むような時代になると、自分と他の命の繋がり、自分と環境の繋がりが見えづらくなります。
 当然、常識や、モラルの中身も違ってくることでしょう。
 
 モラルだけでなく、生きがいも違ってくるように思います。
 自分の為した行為が、自分にどのように還ってくるかが見えづらく、感じづらく、他の命との繋がりも見えづらい人にとって、生きがいもまた、見えづらくなるでしょう。
 生きがいとは、自分の努力に対し、はっきりと還ってくる「手ごたえ」のことだからです。そして、相手や環境の変化に応じて、自分の関わり方を変えるという「生活の知恵」が生まれ、上達し、生活が味わい深いものになります。
 機械化され、近代化された暮らしは、便利ではあっても、生きがいを見い出しづらい暮らしです。
 
 常識やモラルを明文化するだけでは、捉え方の違いから生まれる問題は、根本的には解決されないように私は思います。
 
 自分の為した行為が、明らかに自分に反応・返事として還ってき、命のつながり、そして生きがいを感じられる暮らしに変えていかないと、世代間だけでなく、同世代の間でも、考え方の違いがそのまま、対立となり、対立への対処が出来なくて、苦しみになるでしょう。
 
 ところが、私達はある面、暮らしを変えるという事に「自信」を失ってしまっていると思います。
 
 暮らしを変えるとは、関係の結び方を変えるということで、相手を変えると同時に、自分自身の行動を変えることです。
 
 私達はこれまで、家庭で、学校であるいは職場で、つれあいや子供や仲間に対して、命のつながりを感じさせるような、自信を深めるような対応をしてきたでしょうか?
 
 「命の繋がりを見えなくしてしまえ」とか、「自信を奪ってやれ」と思って関わる人は居ないだろうと思います。しかし、気持ちとしては自信をつけさせるつもりであっても、実際の行動の結果がどうだったかを、見極めることが大切のように思います。機械化された暮らしや受験教育の結果、子供達は自信をつけたのか、自信を失ったのか?命の繋がりを見い出したのか、見い出せなかったのか?
 
 私は、「人は死ぬ間際まで、自分を変える能力がある」と信じています。
自分を変え、暮らしを変える方法は色々ありますが、今すぐに、何処ででも、誰もが出来る改善法があります。
 それは、呼吸法です。生きることの一番の基本は、息をすることです。軽く口を閉じ、唇の隙間から、ゆっくりと息を漏らします。ゆったり息をすれば、心もゆったりしたものになり、心がゆったりすると、命の繋がりを感じやすくなります。
 
 子ども達がのびのび暮らし、かつ他者への思いやりを持って育つようなそんな街にしたいものです。