臨機応変 女犯 玉女の偈

対人関係の苦、意見の相違に基づく苦について考える
 
<女犯 玉女の偈 性文化>
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能莊嚴 臨終引導生極樂
(観世音菩薩がおっしゃった。「行者よ、もしお前が宿報として、女性と交わらざるを得ない身ならば、私が玉女となって、あなたと交わろう。だから、一生荘厳しなさい。臨終のときには、お前を極楽に導いてあげよう。」)
 
言語学を学ぼう 名前をつけるという「自力」>
 私達は、この世に存在し、あるいは現象するものごとに対して、「名前」をつける。
 名前がないととても不便だ。
 「セリ」という植物があり、芹によく似た「ドクセリ」という植物がある。
両方とも「野草」だ。「この野草」は食べられるけど、「あの野草」は食べられない、と言われても、判別がつかない。
 
 世界をより細かく分類し、名前をつけることによって、私達は、より細かな対応が出来る。
 自分にとって都合のよい働きかけがより可能になる。
(あまり細かく分けすぎるとかえって複雑になって、対応できないと言う事態もある。賢すぎるロボットは、情報処理ばかりしていて動けない。)
 
ある刺激群に対して、(この刺激は、このグループに属するものだと、分類判断し)、ならば、このような対処をしようと、パターン化するのは、生きていく上では仕方のないことだと思う。
 
分類の仕方は、集団によって違う、個人によって違う。
漢字を作った中国人は、クジラを魚に分類したのだろう
 
多くの宗教において、宗教家は、性欲を乗り越えるものに分類したと思いがちだが、
同じ仏教でも、密教になると、性欲を肯定し、利用したりする
冒頭に上げた<玉女の偈>は、知る人ぞ知る、親鸞法然を巡る話だ
 ある宗教では、異性を見ただけでも、姦淫だと禁止したりする
 
如何に分類するかを巡って、集団と個人、人と人は対立し、争う
 
<「他力」はアホになれと言うことではないでしょう。アホはアホでも賢いアホでしょう。>
 分類は、あくまで人間が恣意的にするものだ
 どちらの分け方が正しいとは言いがたい
 
 彼岸花の球根は、そのままだと、食用にはならない、食用の植物と分類されない
 しかし、水によく晒せば、食用となる
 「彼岸花を、毒と分類するのは間違いだ。計らいを捨てよ」と言ってそのままかじるとしたら、その人は本当のアホだ。
 
私達は、一人一人が、その人独自の切り分け方で、世界を切り分けているのだ
そのことを自覚できたら、人と人の争いも少なくなるだろう
一人で変に悩むことも少なくなるだろう
 
そうではありませんか、観音様