熊野聖老人と熊楠曼荼羅

生まれたばかりの赤ちゃんは、「言葉」をしゃべれない
しかし、赤ちゃんの周りには、既に、「お母さん」が居て、「布団」があり、「家」もあり、「地球」もある。
 その様子を見て、お父さんは、言葉以前に、「世界」はあるんだ、「色々なもの」が先にあるんだ、後で、「名前」をつけていくんだ、と思う。
 だけど、そのお父さんは、お父さん自身が、この世に生まれ、目も見えず、言葉をしゃべれなかった時、世界がどのように映ったかを、忘れてしまっている。
 
 幼子は、「椿」を見て、「ハナ」という。「薔薇」を見ても「ハナ」という。
 大人に、「椿」を見せて、「これは薔薇かな」と言うと、「違うよ、椿だよ」という
 
 同じように、大人は「心」と「身体」は別のものだと言ったりする
 「私」と「世界」は別のものだと言ったりする
 
 そんな大人の中に「心身一如」と言う人が居て、「彼我一如」と言う人が居る
 唯名論者と実念論者が果てしなく論争し
 
 そして南方熊楠は、「粘菌曼荼羅」で遊ぶ
 
 熊野聖老人は
 ある時、地獄を脱して、涅槃に至る智慧を伝え
 ある時、「地獄極楽別でない」といい
 ある時、「地獄や極楽があるわけでない、ないわけでない」と言う
 
ある人が、さっき言ったことと今言っていることが違うじゃないかと
聖老人に問えば
答えず踊りだす
更に問えば、
「お腹の空いた人には、ご飯を出すじゃろ。お腹一杯の人には、お茶を出すじゃろ」とさ。