アングリラーマのリセットボタン

ここの日記に、何度も何度も書いてきたが、
「生きる」ということは、(象徴的に言えば)先ず「息をする」ことだと思う
 
「息をする」ということは、皮膚の内側から二酸化炭素を出し、皮膚の外側から酸素を取り込むということ。
 
つまり、皮膚の内外の交流が、生きるということだと思っている。
 
皮膚の内側の環境を保つ為に、皮膚の外側から取り入れるものは、酸素だけでなく、水であったり、食べ物であったり、皮膚への接触であったり、言葉であったりする。
 
それらを取り入れることによって、皮膚の内側に変化が起こり、同時に皮膚の外側にも変化が起こる。
 
その皮膚の内外の変化が、また皮膚の内外の環境に影響を与え、私達はその変化に対応して、何らかの行動を起こす。
 
単純に言えば、状態が快なれば、それを維持増幅しようとし、不快なれば、それを減少させようとする。
 
これはあくまで単純にいったまでのことで、快と不快の境界がはっきりとあるわけではない。
お酒を飲むのが快の人も居れば、不快の人も居る。飲む時は、快であっても、後で二日酔いとか高額請求という不快があったりする。
 
生きるということは、自分自身や他人や自然環境に働きかけて、何らかの変化を与えたり、変化を阻止することだ。
 
自分の思惑通りに、変化を与えたり、あるいは変化を阻止できたりすると、私達は快と感じ、思い通りにいかないと、不快に感じる。
 
ところが、いつも思い通りになるわけではない
 
ある状況において、その状況への変化や変化阻止の働きかけは、ひとつではない。
 
しかし、私達は、いつも最適の働きかけを選択しているわけではない。
 
側である人の行動を見ていて、「もっといい方法があるのに」と思っていても、その本人が、その方法を知らなくては、その本人はその方法を選択できない。
「あまりいい方法でないな」と、他の人が思っていても、本人が「これでいいんだ」「この方法しかない」と思い込んでいたら、他の方法を選択できない。
「あまりいい方法ではないな」「他にもやり方があるな」と本人が感じていたとしても、その「他のやり方が、いいのかもしれないが、私には難しい」と思っていたら、その方法を選択できない。
 
私達は、可能な選択肢を、全て知っているわけではない
自分の思い込みに気づいているわけではない
自分の能力に完全な自信を持っているわけではない
(瞑想の実践と、友やグルとの語らいで、気がついたりする)
 
自信について言えば
私達の人生において、成功の体験と失敗の体験のどちらが多いだろうか
成功と失敗の分け方、数え方にもよるだろうけど、
失敗することによって、工夫が生まれる
と同時に、自信を失ったりもする
 
ある人は、失敗から学び、工夫し、更に働きかけを行い
ある人は、失敗から、自信を失い、働きかけを辞めてしまったりする
その違いは何処から生まれるだろう
 
ともかく、失敗しても、真面目で、地道な努力を続けるしかない
友達の存在、グルの存在が大きかったりする
また、真面目な努力をする人には、友人やグルが側に居たりする
 
「正直者が馬鹿を見る」(真面目な努力が報われるとは限らない)という人も居るが
そういう人は、真面目な努力をしても、人から認められる体験が少なかったのかもしれない
と同時に、自分で自分を認めてあげる体験もしていないのだろう
 
過去はどんなに暗くとも、今ここから、新たに努力を始めるしかない
 
私自身について言えば、失意のアジア放浪旅の中で、赤痢になって死にかけた
あまりに腹痛、頭痛が苦しくて、もう死んだほうがましだと思った、
ああ死ぬなと思った
しかし、「もう一度やり直しなさい」という声も聞いた(ということにしてある)
 
オートマチックな生活というのは不幸なのかもしれない
というのは、努力をし、失敗から工夫する、
例え失敗しても、その努力を自分で認めてあげるという体験そのものが
きっと少ないだろうから
 
私達は初めて自転車に乗るとき、随分失敗したし
更に遡れば、二本の足で立つ時も随分失敗した
それでも、諦めなかったではないか