諸行無常、諸法無我 「私」は分泌物

人間と機械のちがいをあげるとしたら、色々あるだろうけど、
私は、人間は生まれてから死ぬまで動き続けることが機械との違いだと思う。
 
車は、使わないとき、エンジンは動いていない。ガス欠になっても、ガソリンを入れるとまた動くことが出来る。
 
ところが人間は、眠っている間も、気絶している間も、心臓は動いているし、呼吸はしているし、血管の中を血液が流れ続いている。空気の供給が5分も止まれば、再生することは難しいだろう。
 
そこで、魂とか、心とか、私を考える。
生まれてから死ぬまで、心臓は動き続けるが、魂とか心とか私は動き続けているわけではない。
つまり常住常動ではない。
 
例えでいってみれば、口の中に食べ物が入ると、唾液が分泌される。
だから、魂とか心とか私とかも、からだ全体が作っている分泌物のようなものではないか?
 
ところが、私達は、魂とか心とか私とか、常住の主体と勘違いしがちだ。
常住の主体は、からだ全体だ。
 
そのからだ全体にしても、環境あってのからだ全体だ。
 
からだ全体も言って見れば、地球の分泌物。
その地球も、宇宙の分泌物ではなかろうか。
 
必要があって、目的があって唾液が分泌されるように、
人間だって分泌されたのだろうと思う。
 
ただ、唾液と人間の違いは、目的とか必要性を考えることが出来ることではないか。
自分自身を見つめること、意識できることではないか。
 
全体との関わりの中での、自分の仕事役割を自覚して、仕事を果たしている時、エネルギーが分泌され続けるだろうが、全体との関わり、つながりを見失った時、枯れていくように思う。
 
宇宙は夢を見る。地球は夢を見る。森は夢を見る。夢の分泌物が人間かもしれない。