なぜ瞑想するの? 苦の生滅 あるいは美学

ビパッサナー瞑想、念処経、根本仏教キネステティク、認知的運動療法、アンチ人間機械論、全体論、システム理論、複雑系的生命観、太極拳、リンパマッサージなどなど
 
私の中では、全てつながっている
 
人間のからだは、生きている限り、眠っている時も、気絶している時も、動き続けている。
宇宙もまた、今このとき、拡大し続けているといわれている
 
食べ物が口の中に入ると、唾液が分泌されるように、
「私」は、からだ全体が分泌している分泌物だと思っている
「人間」は、地球全体が分泌している分泌物だと思っている
 
人間の行動は、ほとんどが、無意識的、習慣的に行われる
もし、全てを意識して動かそうと思うと、
賢いロボットのように、データ処理だけで、手一杯になり動けなくなる
 
無意識的行動、習慣的行動が、必ずしも、自分自身、そして環境に対して、
適切な行動とは言えないときがある、
そんな時、人間は苦しんだりする(苦しまないこともある)
 
生命がその生命を維持できるのは、ホメオスタシスの機構があるからだというヒトがいる
同時に
生命が進化してきたのは、環境の変化に合わせて、その行動を変えてきたからだというヒトがいる
 
フロムは、仏教の四諦の中で、一番難しいのは、
第一諦 苦諦だという
つまり、自分が、不適切な行動をとった時、その自覚を持つことだという
生老病死の実存的苦の自覚を持つことももちろんだが)
 
そこで、自分の行動を見つめる、自覚するという行動が生まれた
それがビパッサナ瞑想であり、念処だろう
 
実のところ、何が適切な行動で、何が不適切な行動か、難しい面もある
日常生活でヒトを殺せば、殺人罪に問われるが、戦争では沢山人を殺せば、勲章がもらえる
 
これは適切だ、と言い切れるわけでない
これは不適切だ、と言い切れるわけではない
 
法とか道徳が人間の行動を制限し、時に命を守り、時に命の輝きを奪う
 
だからこそ、個々の状況、関わりにおいて、
自分の行動が具体的に何を起こしているかをよく観察し、自覚し
自分が責任を持って、
個々の状況で態度を決していくしかない
 
自業自得という美学
 
(だけどやっぱり、惰性で動くことが多いですねえ)