勇気付けの朝 回心 友愛 隣人愛

思い出して頂きたい
今日の朝目覚めた時、寝床の中で先ず最初の5分間で考えたことを。
人それぞれだろう
「あ、時間だ」とさほど考えることなく、いつもの手順を始めたヒトがいるだろう。
「さあて、今日はどうやって楽しもうか」と目覚めたヒトもいるだろう。
「起きたくないなあ、でも起きなくては」というヒトもいただろう。
「虚しいなあ、何で起きなくちゃいけないんだろ」と考えたヒトがいたかもしれない。
「ああ、今日も生きている、生かされている。感謝」と思ったヒトがいるかもしれない。
「世の中なんて、自分の思い通りにならないものさ。でも生きていく為には起きなくては」と思った人もいることでしょう。
「さて、今日も自分ができることをしよう。自分に求められていることを果たそう」と思った人もいることでしょう。
 
「さあ起きるぞ、さあ生きるぞ」と、積極的に起きてくる人々がいて
「仕方ないなあ」としぶしぶ起きてくる人々もいる。
 
しぶしぶ起きてくるよりは、積極的に起きてくるほうが望ましいが、
その差は何処から生じるのだろうか?
 
「生かされている、愛されている」と感じながら起きてくる人々がいて、
「むなしいなあ、寂しいなあ」と感じながら起きてくる人々がいる。
 
寂しいなあ、と起きてくるよりは、愛されているなあ、と感じて起きてくるほうが望ましいが、その差は何処から生じるのだろうか?
 
実際、私達のある人々だけが、愛されていて、他の人々は愛されていないのだろうか
それとも、私達はいつも愛されていて、生かされているのだけれど、
ある人々はそのことを感じ、ある人々はそのことを感じることが出来ないのだろうか?
 
「ああ生きるってことは虚しいなあ」と感じることは、特別な感情なのだろうか、それとも生きることが虚しいのは当たり前であって、その上で、積極的に生きることが求められているのだろうか?
 
私が理解する原始仏教の立場は、全ては流れていく、全ては思い通りになるわけではない、と説いているように思う。
 
私の喜び、私の幸福を求めることが、人生の目的ではない、といっているように思う。
 
では、私の人生の目的は何なのか?何の為に生きるのか?
 
そういう問いかけを持つことは不遜である、といっているように思う。
そういう問いかけは脇においておいて、自分が世の中に、他の人にできることを考えるようにいっているように思う。
 
そういう問いかけを、脇においておける人は、強い人だと思ったりする。
ヒトは、いつもいつも強くあれる存在でもないと思ったりする。
がしかし、実際
自分ができることはなんだろうと考え、自分に出来ることを実践する時
自分が生かされていて、愛されていることを知る