相手を変える 自分を変える 環境を変える 全体を変える 関係を変

大前提
 「生きるということ」は息をすること
 次に、食べるということ、飲むということ、そして出すということ
 息をするのは、じっとしていても出来るが、
 食べること、飲むこと、出すことの為には
 他の人間に働きかけたり、環境に働きかけたりして、
 相手を変え、同時に自分を変えなければならない 
 つまり、生きるということは、相手を変えるということ
 
 「苦しみ」とは自分の思い通りに、相手が変わらないということ
 
 そこでの問題解決の方法は
 相手(環境)を変えるための、自分の方法を変えるという事
 (相手を変えるという事を断念することも含めて)

道徳家や心理学を少しかじった人はよく、
「相手を変えるよりも、自分を変えることだよ」とアドバイスする
アドバイスされた本人も「その通りだね」と返事する
それでいて、相変わらず、自分の思い通りにならなくて、苦しんでいたりする
 
表面的には「相手を変えることより、自分を変えること」に同意しておきながら
実は、自分の方法を適切なものに変えることなく、相変わらず、相手を変えようとしていたりする
 
ある人々は、その姿を見て「無意識」や「心の傷」を持ち出す
表面的には納得していても、「無意識」が納得していないのだと
そういって、見ることも触ることも出来ない無意識に働きかけることを勧める
 
そういったセミナーに参加したことがある
あるヒトが、自分の思い通りにならないことがあって、悩んでいて
皆が見ている前で、自分の無意識に働きかけ、自分をさらけ出すことになった。
そういう意味では、自分を変えることになった。しかし、
しばらくして、またそのヒトは、別のことで自分の思い通りにならないからといって
みんなの前で、無意識に働きかけることをした
 
なんだか、自分の心の傷をさらけ出し、泣いたり叫んだりすることが
気持ちよくなってしまっているようだ
「皆見てよ、私には、こんなに大きな心の傷があるんだよ、
 悩んで当然でしょ」といっている気がした。
そういった意味では、セミナーの場ではなく、現実に生きている現場での自分を変えていないようだし、変えたくないのかな、と思ったりした。
 
セミナーの場とか、一般論としては、自分が変わるんだと納得していても
現場では変わらない人も結構居る
 
無意識でなくとも、実は変わりたくなかったりする
「ここで自分が変わったら、自分の負けだ」といって変わらないヒトが居る
「自分は間違っていない、相手が正しくない、なのに自分が変わると、相手の不正を認めることになる、だから自分は変わらない」といって変わらないヒトがいる
 
自分が変わればいいのかもしれないが、どう変わっていいのか分からないヒトが居る
どう変わればいいのか、分かっていても、勇気が挫かれているヒトが居る
 

もし、ある方法で、相手や環境が変わらなかったら
方法を変えるか、変えるという事を断念するか、だとおもう。
 
相手を変えるよりも、自分を変えようという二者選択の表現は不十分な表現だと思う
なぜなら、生きるということは、基本的に、相手や環境を変えることだし
もし、ある方法で、相手や環境が変わらなかったら、
方法を変えるか、変えるという事を断念するかしかないだろうから
それに、相手を変えようとすることはよくなくて、自分を変えることの方がいつも良いとは限らない
 
どうやって、自分を変えるという事を本気で決心するか、またそれを援助するかが、工夫、研究のしどころだろう
気がつかないまま、この方法が正しい、この方法以外ないと思いこんでいることに対して
代替案を実行してもらうのは、そう簡単でもない
 
<<「相手を変えるのではなく、自分を変えるのだ」ですって?
あなた、本当に自分を変える気はあるのですか?>>
決意しましょうよ