言葉が苦しみの因になったりする

言葉なしの生活は、考えられない
言葉を使わずに、自分の思いを誰かに伝えるとしたらどうするだろう?
言葉を使わずに、世界で起こっていることを、感じ取り、判断することが出来るだろうか?
 
もし言葉というものがないと、ただ、刺激に対して反応するだけに終わってしまうのだろうか?
 
言葉というものは、人間にとって必要不可欠なものだろう
しかし、言葉を使っているうちに、言葉によって、錯覚が生まれることも確かだ
 
言葉の働きとして、言葉は先ず、世界を分けることに使われる
「あか」という言葉は、世界を、「あかい色」と「あかい色以外」に分ける
赤と赤以外の境界を何処に置くかは、曖昧。(このことは後で考える)
 
なぜ、そしてどうやって分けるのか?
自分が生きていくのに都合がいいことには接近し、都合が悪いことには、遠ざかるあるいは遠ざける為だろう。
 
おなじ「あか」でも、自分にとって都合のよいあかと都合のよくないあかに出会ったりするするだろう。
そんな時、「あか」の中に、また境界をつくる。
「(心地よい)あかるいあか」と「(ここちよくない)あかるくないあか」だったりする。
外側だけでなく、自分の感覚のなかにも境界をつくるだろう。
「あたたかくきもちいい」「すっきりきもちいい」といったように。
 
そんな風にして、言葉が増えていく。境界が増えていく。世界が分かれていく。
世界への働きかけが、より微妙になっていく。
 
長い歴史を掛けて、人間は、言葉を作ってきたのだろう。
細胞レベルのことや、進化の過程のことについては、ほんの数十年しか生きていない私にはもう分からない。
 
長い長い歴史を経て、今では赤ちゃんは、既に沢山の言葉がある世界に生まれてくる。
 
赤ちゃんや幼児そして大人は、言葉の意味が厳密にはわからないまま、言葉の使い方をおぼえたりする。
 
どんなに言葉の数が増えたところで、実際にひとりの人間に見えていること、感じていることを言葉では表現し得ない。
 
言葉の表現は、凡その表現になるからだ。
しかし、そのことを忘れてしまったりする。そのことが苦しみの元になったりする。
言葉はラベルであって、記号なのに、何か具体的なそのものであるように勘違いする。
 
「机の上にボールペンがある」と、普通はいうが、実は
「机の上に、ボールペンに分類されるものがある」の<分類されるもの>を省略している
 
<ボールペン(に分類されるもの)>なら、まだいいが
「私の無意識には、心の傷がある」という表現をしてしまうと
<無意識>や<心の傷>が、実際あるような気になってしまう
<心の傷>を消そうとして、あれこれ行動し、かえって苦しみが生まれたりする
 
もし、今、苦しいという感情があるとしたら
観察可能でない、形而上的な言葉で、煮詰まっていないか、自己点検するといい
そして、しばらく、観察可能な言葉だけで、考えたり、話したりするがいい