無記 語りえないことについては語らない 苦の生滅

原始仏教の経典、中阿含の箭喩経によると、ある時仏弟子である鬘童子が、釈尊に問うたそうである。
「この世に果てはあるのですか、無いのですか、死後の世界はあるのですかないのですか?」
釈尊は、「鬘童子よ、私はあなたに形而上的な問題について語る約束をしたおぼえもないし、あなたも私に形而上的な問いの答えを聞こうと入団したわけではあるまい」と答え、その問いに答えず、苦の生滅を説いた、とあります。
 
時々私も、形而上的な思考に煮詰まって、思わず、先達に問いただしたくなることがあります。
 
例えば、
「第三世代システム理論では、<我>を実体と見ているのか、いないのか?<我>と世界との関係をどう見ているのか?」といった思考です。
 
先達は、あたかも釈尊の如く、「観察可能な出来事を、ありのまま観つめなさい」と答えられます。
 
私は、しばしば、観察可能でないことを、あたかも観察可能な出来事であるかのごとく思いこんでしまっていたりします。
 観察可能でないものとは、「心」がそうです。「無意識」がそうです。「私」がそうです。
 
「私」など、いつでも見れるではないか?と思ったりしますが、
鏡に映る像は、「私の顔」「私の肉体」であって、「私」そのものではありません。
 
「あなたの心そのもの」「あなたの気持ちそのもの」も私には観察できません。
「あなたの行動」は観察できます。
あなたの声、あなたが書いた文章は観察できます。
 
でもしばしば、私は、行動をありのまま観察するのではなく、勝手に意味を作ってしまったりします。そして、勝手に、腹を立てたり、悲しんだりします。
 
形而上的な思考で煮詰まってしまって、身動きが取れなくなったとき、そんな私をほぐしてくれるのは、苔であったり、スミレであったり、スギナであったり、名も知らぬ雑草の双葉だったりします。
 
私が創った訳でない生命が目の前に存在しているのを見ていると、なぜか嬉しくて、落ち着いてくるのです。

戒定慧
身を調え、瞑想し、智慧を見い出すように