誠実

「真面目に、誠実に暮らせば、この世の中そこそこ生きていける」
というのは、真実だろうか、真理だろうか
    
何を以って「誠実な生き方」というか、難しい
また、「生きている」というのは単に、命を永らえることでもあるまい
   
先ず「誠実」ということについて
「自分が、<是は誠実な生き方だ>と思う生き方が誠実な生き方」
だから、「誠実」に「絶対的な基準」というものがあるのではなく、
かといって、自分が勝手に決められるものでもない
「誠実」というのは、何に対して誠実かが、問われる
        
善因善果、悪因悪果という言葉があるが、
世界には善意がある、人間には善意、良心がある ということを前提とするかしないかが先ず一点
その上で、善因善果、悪因悪果を信じるかどうかということ
   
 無論、何を以って善果、悪果と決定することは難しい、
 人生万事塞翁が馬ということがある
          
私の結論を先に言ってしまえば
「誠実に生きていけば、そこそこ生きていける」と思っている人は、
実際そのように生きていくことができ、
「誠実に生きたって、生きてはいけない」と思っている人には、
本人が誠実な選択をしたつもりでも、上手くいかないことが多い
     
「誠実」と使っている言葉は同じでも、意味が違うだろうし、何を持って善果、悪果とするかも、違うから。
     
 「誠実な生き方をすれば、そこそこ生きて行ける」と思っている人が、誠実な生き方をしようと決意し、誠実な選択だと思う選択肢を選択したとき、<結果がどう出ても>、それは悪果ではないから。(まあ言ってみれば、全ては、阿弥陀様のお計らい)
    
「誠実な生き方をしても、生きてはいけない」と思っている人が、是が誠実な生き方だと思い、それを選択したとしても、<自分の思うような結果がもたらされなかったら>、ほらごらん、誠実に生きたって、いいことないよ、といったりするから。
      
 私は、人間は善意の塊とか、誠意の塊とは思わない
 かといって、エゴイズムの塊とも思えない
      
 秤にかけたとき、誠意のほうが多いのか、エゴイズムのほうが多いのか
 それは一人一人、状況次第です。