二宮金次郎 簡単な紹介前半

k1s2005-08-01

 二宮金次郎は、1787年天明7年7月23日(太陽暦9月4日)、相州足柄上郡東栢山村(小田原市栢山)に生まれました。
           
 1791年数え年5歳の時、酒匂川が氾濫し、田畑が石河原になってしまいました。

 元々裕福でなかった暮らし(村人は、金次郎の父利右衛門を、栢山の善人と呼んだ。利右衛門は、人が困っているとお金や米を貸し与え、返済の催促をしなかった)の中で、田畑を元に戻そうと、一家で励みましたが、11歳の時に父が病の床に伏し、14歳の時に亡くなります。更に、16歳の時に母が亡くなります。
 それで、金次郎は伯父万兵衛、弟二人は、母方の親戚に預けられます。

 万兵衛は、学問よりも農業に精を出すよう金次郎に求めます。それで、金次郎は、家のものが寝静まってから、行灯の光を漏らさぬように勉学しました。
 行灯の油は、荒地に油菜を育て、それを売って作りました。
          
 ある年、出水のため、不用となった古掘を農作業の合間に開墾し、他の人が捨てた余り苗を貰い、稲を育てた。それが1俵となった。ここから、小積為大を学ぶ。

 その後、数年にして、二宮家を再興する。
 このことが、小田原藩家老、服部家の再興を依頼される。
 服部家は、禄高1,300石、しかし、借金が1000両あまりとなっていた。
 最初は断ったが、依頼を受け、分度、推譲の仕方で、5年で再興した。

 小田原藩主大久保忠真公は、二宮金次郎を、藩政に参加させようとしたが、群臣の猛反対にあって、実現しなかった。
 そこで、大久保公は、誰もが成功しなかった事業を、二宮金次郎が成功させれば、その功により、認めざるを得ないだろうと考え、桜町領の再興を依頼した。
          
 桜町領は、大久保公の親類宇津家の領地で、名目上の石高は4千石だったが、実際は、1千石もなく、人々の心も荒れていた。何度も再興を試みたが、悉く失敗していた。
         
 このときも、最初は断ったが、綿密な調査をし、依頼を受け、10年をかけ再興した。
 ある年、初夏に食べた茄子が秋茄子の味がしたことから、その年の飢饉を予測、商品作物をやめ、稗を育てて飢饉に備えた。そのことによって、他では数万から数十万の餓死者を出したが、桜町領では餓死者を出さなかった。
        
 桜町領の再興を引き受けるに当たって、それまで出していた補助金を断った。
 豊葦原の国を、瑞穂の国にするにあたって、外国の援助を受けて国土を耕したわけでない。その土地の持つ徳を、徳をもって引き出すやり方で行う、と断った。

 単なる精神論ではなく、綿密な観察調査をもって、現実的な方法をもって、解決に当たった。