安心 安信

安信という言葉は、実は私の造語です(かつて存在した証券会社の略号ではありません)
字のごとく、「安らかに信じる」という意味で作ってみました。
                
 人類、人間は何万年もの間、自ら野山や海で採集したり、大地を耕したりして、自分たちが生きていくのに必要なものを得てきました。
 現在でも、人類全体を見れば、自然から必要なものを得ていることは変わりないのですが、機械化と分業が進み、多くの人は、自ら採集狩猟したり、耕したりしなくなりました。

 自然との一体感・つながり感は、ただ観察したり、眺めたりするよりも、実際触れたり、耕したり、採集狩猟したりしたほうが得られるように思います。
 ( 私自身、定置網の漁師生活や荒地の開墾を体験してそう思うのです)
             
 逆に言えば、自ら耕したり採集したりしなくなったので、自然との一体感、交流感、命が循環する実感が薄らいでしまったように思うのです。そのことによって、漠然とした不安感(自分がいつか死んでしまい無に帰することの不安感?)が心のどこかに潜んでいるようにも思います。
                
 自ら採集狩猟したり、耕している時には、冬の後には必ず春がやってくること、枯れてしまった草の間から、新しい芽が出てくること、つまり自然は循環するということ、そして自ら自身もまた、その自然の中で何らかの形で循環することへの「信」があったように思うのです。
 その「信」に基づいて「安心」があったように思うのです。
           
 どんなに機械化、分業が進んでも、人は食べねばなりません。
 食べることによって、調理することによって、つながり感を持つことができますが、自ら調理することも無く、また原形をとどめない加工食品が増えたり、味わって食べたりしないで、ただお腹を満たすために食べたりすることによって、つながり感も薄らいでしまっているように思えます。
          
 味わって食べる時、目の前の食べ物となった命達は、一度死に、死ぬことによって、新たな命となるということを、食べるということを通して味わっていたと思うのです。
          
 人間は、自然界の一員であると同時に、社会的動物であって、人間社会の一員です。
日々安心して暮らすには、自然とのつながり感だけでなく、人間社会とのつながり感が必要になってきます。
 (ともかく生きていたいと思うし、まして、自分が命として、循環するという実感が無い場合、今生できるだけ生きていたいと願うでしょう。)
           
 人間社会の一員であるので、現在では、自然とのつながり感を持とうとして、好き勝手に野山や畑に出かけ、採集狩猟したり、耕したりするわけにはいきません。
           
 何万年かの間、直に自然に触れて生きていた人間が、たったここ百数十年の間に、機械化と分業が進み、直に自然に触れる機会が少なくなった。
 それに伴い、命の循環の実感が薄らいだ。
             
 ただ単に、自然や循環に関する知識を得るだけで、命の循環の実感が得られるわけではない。暮らしそのものを、変えていかねばならない。
 だからといって、原始生活に戻るわけにはいかない。
                
 さて、その自覚をもとに、どう生きようか?
 どうあれ、せめて、あらゆることにおいて、丁寧に触れること