私の悲しみは私だけのもの

学習と上達について再び
 
 フェルデンクライスは
「われわれは自らの自己イメージ通りに行動する。」と述べました。
(フェルデンクライス身体訓練法 大和書房 9頁)
 
 更に
「この自己イメージは、遺伝、教育、自己教育という三つの要因に制約される。」
とのべています。
 
 ネアンデルタール人は発語はできたけど、ホモサピエンスのようにな複雑な発語できなかったといわれています。それは、口腔の構造の違いによります。つまり、遺伝子の差です。
 
どんなに努力しても、ネアンデルタール人は、ホモサピエンスになれません。
 
 日本に生まれて育った日本人は、学校へ行かなくとも、大抵は日本語を話せます。
 これは、「教育」のおかげです。
 
 日本人は学校で英語を習います。しかし、必ずしもみんなが英語を話せる訳ではありません。
 
 一旦身についた日本語で日常生活を送っていて、更に英語をマスターするのは、「自己教育」の領域だからです。
 
 英語が難しいのではなく、一旦身についてしまっている日本語が邪魔をするからだといわれています。
 
日本語と外国語の関係のみならず、私達が一旦身につけてしまった学習とは違う学習をするとき、同じようなことが起こります。
 
既に身につけてしまっている学習が、新たな学習の邪魔をするのです。

 師匠が弟子を追い詰めたりするのは、すでに習った学習を放棄させるためです。
 
 本人が、今まで習ったことを一旦棚に上げ、新たに学ぼうと思っても、今まで習い身につけた学習が、邪魔をするのです。ですので、新たに学ぼうという気持ちが無いのに、今までの学習を捨てさせ、新たに学んでほしい、と願ったりするのは、無理なことを願っています。
 
 でも、親は、そういう願いをしばしば子供に抱いたりします。
 
 自分が自分の成長を願う時、自分を信じることは大事だと思います。
 と同時に、そう同時に、自分を疑うことも必要です。
 
 それには、常に自分自身で自分に対して問いを持ち続けることです。
 
 問いをもつことを、私は「瞑想」といっています。
 ですので、私にとって、そのような瞑想は神秘的な経験ではありません。
 
 
 「生きることに意味はあるのか?」「くくりつけの意味などない」 
 「意味がないのならなぜ生きるのか?」「ないから生きるのだ」
 などと自分と会話したりします。

 
 今日は朝から雨。強く降ったり弱くなったり。
 
 家の向かいに見える光が峰をみていました。
 
  
 山の峰々に雨が降り注ぐ
 谷間から雲がわき立ち 天に昇る
 枝にたまった雫が 風に膨らみ
 ひとつ 又ひとつ 落ちていく
 木のてっぺんで 鳥が歌う
 私の悲しみは 私だけのもの
 誰にも味わえない
 雨に打たれながら 生きると決めた時
 悲しみの雫は 霧になり 光となって 天に昇る
 私の悲しみは 私だけのもの
 光となって 天に昇る