学者さんによって、ハレとケの関係の捉え方、聖と俗の捉え方がまちまちのようだ。
そういった学問的解釈は、学者さんたちに任せるとして、ハレとケだけに限らず、二元の関係ををどうとらえるか?
つまりは要素論と全体論の違いになるだろう。
それらの論議もまた学者さんに任せるとして、私はどちらかといえば全体論的な二元論のほうを選択する。
苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、という言葉にしても、苦も楽も長続きしないという解釈もあれば、苦の中に楽があり、楽の中に苦がある、というとらえ方もできる。
確かに、ケの積み重ねの中に、ハレの日が訪れる。ハレの日のためにケの日常を積み重ねるという生き方を否定はしない。と同時に、ケの日の中にも、ハレを見出していくことが大切と思っている。
そんな全体論的な二元論を、十代の時、桜沢如一著の「無双原理・易」で知った。
ショックだった。自分は日本に住み、東洋人だと思っていたが、精神の中身は、明治期以後の西洋に追いつこうとする近代思想でいっぱいだ、と感じた。
以後いろいろ遍歴があって、ブーバーのことを知り、もう一度「易」と向き合おうと思っている。