瞑想 私の場合

 私は時々、「予定」という言葉をテーマに瞑想します。
 といっても、「さあ今から<予定>について考えるぞ」と瞑想するわけではありません。
 
 時に、焦りの感情とか、漠然とした不安の感情に支配され、追いたてられそうになる時があります。そんな時、「いや待てよ。」と立ち止ります。「<私は不安である>ではなく、<私に不安がある>ではなかったか?この不安や焦りはどこからきているか?」と考えます。
 
 それは、まず私に何らかの大小様々な目標、目的(こうなりたい、あるいはなりたくないという思い)があり、それを達成するため、あるいは避けるために、事細かな「予定」を組んでいるわけです。その予定通りに事が運んでいない時、焦ったり、不安になっていたりします。
 
 そこで<予定>について瞑想します。私がたてた予定は、私が勝手にたてた予定である、と確認し、予定を組み直します。人によっては、ここで、「欲望が苦しみの原因である。一切の欲を捨てなさい」と勧める人がいるかもしれません。場合によっては、私も何らかの欲望を諦めたりしますが、一切ではありません。
 
 <予定>は自分が勝手にたてた予定と自覚したうえで、予定を組み直します。
 
 同時にエックハルトの、「神の慰めの書」の一節を思い出したりします。
 
 「もしひとが従順からして己自身の外に出るならば、その時にはこんどは否応なく神が彼の中に入ってこられるにちがいない。なぜなら、ひとが己れのために何物をも欲望しないときは、神が彼のために欲望し給う。」 M・エックハルト著 神の慰めの書 講談社学術文庫 17〜18ページ