☆挨拶
あらゆるできごと、ものごとにおいて、どのようにして人は上達するのだろう、発達するのだろう、あるいは回復するのだろうと考え、求め続けてきました。今もその途上です。
本日は、その探求を通して、私が先達から受け継ぎ、未来へ繋ぎ育もうとしている智慧の中間報告です。話の途中でも、質問はどんどんしてください。皆さんと一緒に考えようと思います。
☆具体的な事例 ギターとウクレレ 基本姿勢の捉え方から見えてくる人間観
私は昭和29年生まれです。私の青春時代は、フォークソングの全盛時代で、男子はギターが弾けて当たり前といった感じがありました。私達男子は、誰に習うわけでもなく、あるいは友達同士、見よう見まねで覚えました。大体は、禁じられた遊びとか、C、F、Am、G7コードを使ったハ長調の曲から覚えたものです。一応教則本などを読んだり、買ったりしました。本には必ず最初に、姿勢のことが書かれていました。しかし、姿勢の頁は読み飛ばして、早く結果が出ることを目指しました。私の場合、ギターも手に入らず、教えてくれる人もなく、高校を卒業した姉が私にクラシックギターを残してくれ、ネックの太いギターで練習しました。目の前の小さな結果を求め、急げば急ぐほど上達が難しかったです。
55歳になって、ウクレレを始めました。今回は余り急ぎませんでした。技術的にすごく上手になることは、ある意味で諦めています。今から頑張っても、ジェーク・シマブクロのようにはなれないと思っています。ウクレレ練習をする自分の観察を通して、ものごとの上達はどのようにしてなされるか探ってみようという思いで、ウクレレを楽しんでいます。すると、客観的判断ではなく、自分の感覚なのですが、ギターの時とは違って、上達が早いように思っています。これはあくまで自分の主観的感覚です。弦の数が少ないということもあるかもしれませんが、ギター練習の時はクリアーできなかったことが、ウクレレだと、クリアーできます。それは、姿勢に気をつけることと、瞑想により「差異を見出す」訓練、それと物事を階層的に捉える訓練をしているおかげだと思っています。
☆ 智慧その1 ものごとの上達には、姿勢をつくることが大事 でもいい姿勢ってどんな姿勢?
私の学童時代、青春時代は、学歴重視主義で、心身対立二元論が基本的世界観でした。そして、精神を肉体より上位においていました。一方、体育においては、オリンピック主義があって、重力に逆らって、他の人よりより強く、より速くが素晴らしいというのが一般的な体育観、運動観だったと自分では思っています。
「心身一如」とか、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉もありましたが、そういった言葉もまず、心身の対立ということを前提としたうえで、だからこそ調和を図ろうという捉え方だったと思います。
それが、20歳のころに「野口体操」と桜沢如一の「無双原理・易」に出会って、体育観、人間観、世界観が変わりました。
どのように変わったかというと、例えば自信という言葉の意味。野口体操に出会うまでは、自信とは「自分には力がある」という感覚のことでした。あるいは「たとえ力がなくても、自分は正しい」という感覚ですね。それが野口体操に出会って「ありのままでいいんだよ」というのが自信と思うようになりました。現在は、「世界から独立した<自分>というものが存在するという捉え方がひとつの虚構・思いこみ・物語であり、その虚構性を自覚したうえで、自分が関わる全ての出来事において責任を果たそうとすること」が自信だと思っています。
自分と外の世界の関係だけでなく、精神と肉体の関係も、精神と肉体という別々の対立したものがあると捉えるのではなく、ひとつのからだがあり、あるはたらきを精神といい、あるはたらきを肉体と捉える考え方があることを知りました。(知っただけで、すぐに対立二元論を克服した訳ではありません)
よい姿勢について考える時も、対立観に基づき、他の人や自然との競争に打ち勝つ姿勢を良い姿勢と捉えていたのが、自分の持てる力を、そして人々がお互いにその力を十分に発揮できる姿勢、人と自然、人と重力が調和する姿勢がいい姿勢だと思うようになりました。
新たな動きができるのは、今仕事をしていないで遊んでいる筋肉なので、必要なところにだけ必要な力が入っている姿勢がよい姿勢だとその当時は思いました。重さは骨が支え、筋肉は骨と骨の関係を変える、つまり姿勢を変えるために使うのであって、重さを支えるのではないと。今思うと、心身一如を目指していたのですが、長年の習慣で、まだ感覚・求心・入力系と運動・遠心・出力系とは別のものと最初に捉え、そのうえでそれらの調和を考えていました。入力よりも出力を重視していました。まだまだ機械的にからだを捉えていました。
いまは、いい姿勢とは、余分な力が入っていなくて、どのようなことにも対応できる姿勢、動きやすい姿勢ということだけではなく、またそういう動きができるためには、必要な情報が十分に入り、全身に伝わる姿勢のことだと思います。出力と同時に入力が大事ということです。そして、出力と入力は別のものではなく、運動・出力・遠心系はすなわち感覚・入力・求心系であり、分けることができない、説明の為に循環的に捉えているだけのことと思っています。このことについては、感覚遮断実験や認知運動療法、リンパマッサージなどを通して、後で説明します。
☆ 上達・発達・回復には差異を見出すこと
あなた自身があなたの為に、動きやすい、状況の変化にすぐ対応できる姿勢という姿勢をつくるとしたら、あなたはどうしますか? あなたにとって、良い姿勢とはどのような姿勢のことですか? 禅では、「揺身」を行います。本に書かれた説明を見る限り、現在禅寺で行われている揺身は、形式的になってしまった傾向があり、確かに長年禅をやっていれば、形式的な揺身でも瞑想に適した姿勢をつくることができるのでしょうが、大雑把なように思えます。アレクサンダーテクニックとかフェルデンクライスメソッドのほうが、自分で自分の姿勢に目覚めて修正するということに関しては丁寧だと思います。それで、今から実際に丁寧に「揺身」を行います。先ずは太極拳の立禅の揺身から。
○説明と実践 立禅と坐禅
( 普通に足を揃えて立ちます。先ず右足に重心を移し、左足に重心がかからないようにします。そうしたうえで、左足を持ち上げ、肩幅分左へ一歩横へ踏み出します。手は人差し指が太ももの横に来るようにします。
先ず、足の裏の皮膚感覚に注目し、床の状態を知ります。硬さ温度でこぼこなど。次に重心を親指の根元にかけたり、あるいは踵の方に異動させたりします。前後にからだが揺れます。揺れを小さくしていきます。そうして一番緊張感のない位置を探ります。次は呼吸に注目します。自分が今息を吸っているか、吐いているか、留めているかに気付きます。呼吸に伴って現れるからだの変化をできるだけ丁寧に拾い上げます。自然に横隔膜・腹式呼吸になり、ゆったり長くなります)
(座布を用意します。結跏趺坐ではなく、ヨガの達人座をします。骨盤を立てます。前後左右にからだをゆっくり揺すり、緊張感の無い位置を探ります。次に、頸椎を伸ばしたままで、頭骸骨を揺らします。以下呼吸については立禅と同じ。)
いい姿勢をつくり、ウクレレを弾いてみると、わかってきたことは、上達には、より細かな差異を感じ取ることが大事ということでした。例えば、今自分の右手の親指が第3弦に架かっているのか、第4弦に架かっているのか、あるいは左手の人差し指が第3弦の第1フレットを押さえているのか第2フレットを押さえているのか、差異・違いが分からないとウクレレの演奏はできません。もちろん関節可動域が大きくなることや反復練習、試行錯誤も大切ですが、反復練習以前に、どの指をどの位置に置くのが適切なのか、正しい位置に置いたときと正しくない位置においた時の体性感覚の差異がつかめていないことには反復練習できません。
そうやって、太極拳や禅で、良い姿勢をつくるために自分の体性感覚(皮膚感覚、筋肉の感覚、平衡感覚)に注目し、差異を見出す行いは、そのまま色々なジャンルで差異を見出しつくりだすことに通じていることが分かってきました。良い姿勢を作ることが、そのまま差異を見出す練習になっています。
☆ 差異を見出すことについて 絵を描くことを通して
私は絵を描くことがとても苦手だったのですが、「右脳で描け」という本に出会ったことと、揺身で差異を見出す練習したことによって、絵を描くことが楽しめるようになりました。又、マッサージについても、日々人々のからだに触れ、揺身の時のように体性感覚に注目するように指先に注目することによって、より効果的な治療ができるようになりました。
○どのような訓練によって絵が楽しめるようになったか、実践してみましょう。
(逆さ絵の模写をする)(描き始めの中心点を決め、そこから描き始めます。)
ここまでのことをまとめると、人間が上達、発達、回復するためには、差異を敏感に感じ取ることが大切であるということです。
☆ 飛行における三つのモデル 差異を感じながらの動き
今回の講座の案内にも書いたのですが、人間の行動、上達を理解しやすくするためのイメージとして、「大砲の弾のモデル」「紙飛行機のモデル」「追撃ミサイルのモデル」の三つのモデルを考えました。
皆さんご存知のように、大砲の弾は、いったん打ち出されると、ほぼ飛行経路も着弾点も決まっています。紙飛行機は、同じ紙で作っても、折り方によって、またその時の環境によって、飛行経路も着地点も違ってきます。しかし、一旦飛び出すと、着地点を自分で決められないことは、大砲の弾と同じです。追撃ミサイルは、目標に向かって飛ぶのですが、目標の位置が変わると、その情報をもとに、軌道を変えることができます。つまり、情報と情報の差異を感じつつ、自分の動きを調整できるということです。
絵が描けなかった時、例えば木の葉を描く場合、目の前に木の葉がありながら、実際の手の動きは、自分の木の葉のイメージに従って、線を描いてしまいます。その線の軌跡もまるで、大砲の弾のようです。一旦動き始めると変えることができません。それが、瞑想により一瞬一瞬自分の筋肉の動き、差異に注目できるようになると、自分の思うような線に近づいて行きました。それは、まるで追撃ミサイルのような軌跡です。
☆ 触れるということから
マッサージの機械にかかるよりも、人間の手によるマッサージの方が気持ちがいいと、多くの人が言います。マッサージの機械には、機械にかかっている人の筋肉の状態がどう変化しているかという差異を感じ取るセンサーはついていません。出力だけです。一方人間の手は、触れてマッサージをしながら、同時にセンサーにもなっています。掌は、出力端子であると同時に入力端子にもなっています。
(この点でいえば、聴覚や視覚だけを通して、出力入力を考えると、遠くから入ってきた情報を受動的に感覚器官が捉える、その情報を脳で処理して、筋肉に対処を伝える、つまり入力と出力は別のものというイメージをもってしまいがちです。でも実は、視覚や聴覚にしても、見ようとして見ていて、聞こうとして聞いています。)
素人や未熟な人は、マッサージ機械のように、相手の状態とはお構いなしに、触れたり押したりします。ですので、マッサージの技術においても、大砲の弾のような動きと、追撃ミサイルのような動きがあるということです。長年人のからだに触れていて思うのは、触れることは同時に触れられることということです。一日に沢山の人のマッサージをして疲れませんか?という質問をよく受けるのですが、実は触れることによって触れられているので、そういう触れ合いは疲れません。
☆ 敏感さと鈍感さ 学習のメタ学習 差異を意識的に見送ること「見る前に飛べ」の階層性
先ほど、上達には差異を感じ取る「敏感さ」が大切と言いました。しかし、余り敏感すぎると今度はかえって上達できない場合もあります。例えば、絵を描くこと、ロボット工学、博物学等で説明することができます。
博物学は、動物・植物・鉱物・岩石など、自然物についての収集および分類の学問です。かつて自然科学者の主な仕事が、この博物学でした。博物学者の多くは、目を悪くして引退したといわれます。なぜか? 博物学者は、収集し分類したものを絵に残します。余りにも細かく詳しく書いたので、目を壊してしまったというのです。植物画の世界にボタニカルアートがあります。まるで写真で写し取ったかのように、詳しくリアルに描く植物画です。最初細かく差異を見出しつつ絵を描き始めますと、自然とボタニカルアートに向かいます。しかし、私達が植物の絵を描く目的は、図鑑に載せることだけではありません。近況を伝える手紙に少しイラストを加えようと思ったとき、ボタニカルアートを添えていたのでは、本来の目的である手紙を出すのが遅くなります。
目的を上手に達成するためには、差異を見出す敏感さが大事であると同時に、「差異を見過ごす鈍感さ」も必要になってくるということです。例えば、ロボットを作る時、自分の位置状態がどのようになっているかの情報を収集するセンサーをたくさんつけると、その情報処理の為の装置が過重になって、重量も重くなりますし、処理にも時間がかかり、かえって効率が悪くなります。テーブルの上にあるコップに手を伸ばし、掴み、口に運んで飲むという一連の動きに対して、その軌跡の可能性は、何通りもあります。数学的な表現をすれば、人間の動きの全身運動のパターンの可能性は数十兆通りは可能だといいます。それを、私達は瞬時のうちに選んで動いています。こういうのをベルンシュタイン問題というそうです。
敏感さと鈍感さが必要、という言葉をもっと専門的な用語を使うと、般化と弁別という二つの働きがあって、人間の認識や行動が成り立っているということです。「全ての犬は、人間である私に危害を加える存在である。」という文章は、前文に「すべての猫は、私にとって仲良しになれる動物だ」という文章があれば、すべての猫と全ての犬を弁別していますし、全ての犬という表現で、ありとあらゆる犬を般化しています。「おおよそ犬のうち、しっぽを振っている犬は友好的で、立てている犬は友好的でない。」となれば、しっぽを振っている犬と立てている犬を弁別しています。
ものごとにおいて上達するには、差異を見いだせないよりは、差異を見いだせる方がいいに決まっています。しかし、余り細かく差異を見出そうとしたり、閾値が低すぎたりすると、今度はそれが、上達の邪魔をするということになります。痛みに対する閾値が下がると、例えば、シャワーの水圧が皮膚にかかるだけで、傷みと感じます。それだけを見れば敏感になっているのですが、痛みにより他の感覚入力が打ち消され、他の感覚や認知過程に対しては鈍感になっているともいえます。筋繊維症の人を見ているとそう思います。となると上達の為には、感覚器官の閾値が高いか低いかということだけでなく、自分で高くしたり低くしたりできることが大事になってきます。
また、差異を見出すためには、そのとき同時に差異を見送ることが必要なのです。そもそも差異を感じるとは、二つの対象を比べることです。無限に広がる世界の中から、位置的にしろ、時間的にしろ、二つの対象を選びだす時、実はそこでカテゴリー化、般化、つまり差異を見送っています。
☆ リハビリ・回復もまた、上達・発達であるということ。
今まで述べてきたことは、生活全般に関わることですが、特にリハビリについていえば、筋力アップとか関節可動域を広げるだけでは、有効的なリハビリとは言えないということです。もちろん、筋力も関節の可動域も大切です。ただ、例えば正坐を長いこと続けて痺れて立てなくなった場合、筋力アップとか関節可動域を広げたりはしないで、血行を良くして痺れを取ることを先ず第一とするように、例えば脳梗塞後のリハビリにおいても、筋力アップ以前に自分のからだの位置関係が把握できること、つまりは差異を感じ取れることが第一であり、その人一人一人に応じたリハビリがあるということです。
☆ 止観瞑想と人生の上達について 瞑想と認知運動療法
上達すること、発達すること、回復することにおいて、第一に「姿勢が大事」、第二に「差異を見出すことが大事」、第三に「差異を見送ることも大事」と述べてきました。差異を見出すと同時に、差異を見送ることは、つまりは、行動決定の階層性、つまり行動を決定するシステムが階層構造になっていることが大事ということです。第一、第二、第三という表現をしましたが、これらは別々のことではなく、伝えやすくするために便宜上分けているだけです。
瞑想とか禅という言葉をこれまで使って説明してきました。この際、改めて「瞑想」という言葉について語っておこうと思います。といいますのは、瞑想という言葉は、日常的に使われる言葉になってきましたが、それだけに言葉の意味が使っている人によってずいぶん違っていたりするからです。
伝統的な瞑想マニュアル(例えば、天台小止観などがそうです)に従って瞑想を実践している人が瞑想という時、それは、神秘的体験とか、非日常的体験は目的ではありません。目的としていなくても、そういう出来事は起こりますが、それらはむしろ魔境、瞑想の邪魔ものとして扱われます。
瞑想は止・シャマタと観・ヴィパッサナからなるというのが、伝統的な瞑想の実践者の共通認識です。
観・ヴィパッサナとは、あるテーマ・問題提起について、考え続けることです。キリスト教文化では、メディテーション(meditation)といいます。考え続けるためには、意識の集中を持続し、かつ疲れたり眠くならないことが必要になってきます。差異を見出す力も必要になってきます。その為には姿勢が大事になってきます。姿勢をつくり、意識を集中し、差異を見出す力、見送る力を育てる行いのほうを止・シャマタといいます。
又、瞑想を持続し続けていると、瞑想している自分を俯瞰的に見つめる視点が生まれてきます。これが階層性の始まりです。
☆ 瞑想と認知運動療法
上達すること、発達すること、回復すること、これらを「学習する」という言葉にまとめることができます。認知運動療法を紹介する「脳の中の身体」という本の中に、<「あらゆる運動機能回復は学習過程であり、学習が脳の認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語)の発達に基づいているのであれば、リハビリテーション治療もまた認知過程の発達に基づいていなければならない」とする認知理論に準拠して、認知運動療法がつくられた。(5頁)>とあります。
先ほど、止・シャマタ瞑想の説明をしましたが、瞑想に最適な姿勢をつくるため、体性感覚に生まれる差異に注目します。そうすることで、差異に敏感になります。知覚や注意が発達します。
実際の認知運動療法の療法過程の記述を読むと、それはそのまま止・シャマタ瞑想の説明と一致します。上達も発達も又回復も、学習であることを考えれば、うなずけます。ですから、シャマタ瞑想をすれば、それがそのままリハビリ・回復という学習に繋がり、上達という学習に繋がります。
☆ からだぐるみのかしこさ 感覚遮断実験
「からだぐるみのかしこさを」という本を、 つるまきさちこさんが書いています。現代でも多くの人が、賢さとか知性を、頭脳、精神、心に属するものと捉えがちです。そして、肉体は頭脳にとって道具的な役割を果たすものと捉えたりします。しかし、最近は、「皮膚は脳である」とか「腸は考える」という題名の本が出版されたりしていて、精神を上に置き肉体を低く見る心身対立二元論とは違う身体観が広まりつつあります。
私は、知性を、「人間がこの世に存在し、活動しやがて必ず活動を停止するということの意義を見出し、その意義を全うさせるからだ丸ごとの智慧のこと」と思っています。
知性は、頭脳や精神、心に属するものではないと思っています。そもそも、このからだの中に、精神や心、魂といった独立した主体があるのでしょうか。
心理学の世界に、感覚遮断実験というものがあります。しかし、この実験は、倫理上、人道上問題があるようなので、今は実施されていないようです。最新の報告では、感覚遮断実験を行うと、15分もたてば、幻覚や幻聴が現れたりするそうです。
私達は、私たちのからだを、皮膚を境に環境から独立したものととらえます。しかし、本当に独立しているでしょうか? 断食、断水をどれくらいこのからだはできるでしょう? どれくらい息をとめておくことができますか? そして感覚刺激というものが遮断されると、精神機能は異常をきたすということです。
空にかかる虹を、私たちは幻としてではなく、はっきりとこの目でとらえることができます。となりにいる人に見えますか、と問えば、私にも見えますというでしょう。しかし、空に虹という独立したものがあるわけではありません。心とか魂とか精神という言葉を私達は、日常的に使います。私達は私達の心や精神を感じることができます。しかし、空に虹というものがあるわけでないように、私達の体のどこかに心がものとして存在しているわけではありません。
一瞬一瞬、姿勢を作り、差異を見出し(弁別)、差異を見送り(般化)、触れ、触れられ、関係を結び続けていくことの中に、心、精神、魂が現象しています。
☆ 人生の意味の心理学
最初に、あなたの生命年齢は何歳ですかとお尋ねしました。正直で常識的な人は、戸籍上の年齢を答えたのではないでしょうか? 隣の韓国や文化革命までの中国では、お母さんの胎内から出てきた日を、一歳の誕生日と数えるようです。胎児のときだけでなく、受精する以前も、卵子は生きていたのですから、遺伝子的にいえば、私たち全員が同い年であるといえます。地球の歴史には、隕石の衝突とか、幾度かの氷河期があったようですが、私達の命のつながりは、それも体験してきています。ヨーロッパでは、ペストの大流行があり、人口の三分の一が死亡した時代もありました。生物学レベルでみると、生命という存在は不思議です。その構造や働きに驚きます。その生物の一部である人間に目を移すと、はたして人間がこの世に存在することに意味や意義があるのかどうか? 人それぞれ違った答えがあるでしょう。
あなたにとって、人生の意味はなんでしょうか? 私は、生物学レベルでは、命の不思議さ、精巧さに感動します。しかし、人間の人生に意味があるかどうかというと、あるのだと言い切ることには疑問です。ないのだと言い切ることにも疑問を感じます。
世界の側に意味や秩序があり、それを見出したり、それと一体化するのが人間の生きる意味、意義だと思っている人もいるでしょう。人間社会がどんなに不条理のように見えても、その秩序意義に沿って変化、あるいは進化しているのだと。
私が今人生の途上で思っているのは、世界の側に意味や意義があるのかどうか、わからない。戦争や貧困を見ていると本当にわからない。分からないからこそ、日々、一瞬一瞬、私がつくりだすのだ、と思っています。つまり、日々の創造を忘れ、うっかり生きてしまうと、あるいは一つ一つの行為に対して、それが人生の意味とどうかかわっているのかという問いかけを忘れて、「肉体保存」だけに生きてしまうと、意義や意味も消えてしまいそうになるとおもっています。
◎ 寝返りエクササイズ
地球、環境、他者との関係の結び方での「上達」を、例えば「重力」との関係の結び方から考えることができます。そこにも、その人の人間観、世界観が深く関わっているからです。
比喩的な表現をすれば、重力を ?「人間行動にとっての桎梏」 と捉える事が出来ます。その同じ重力を、?「人間と地球の絆」 と捉えることもできます。また単に?「物理的な力」と捉えることもできます。
日常生活の中では、人間に重力が掛かっていることは当たり前すぎて、人間行動と重力の関係はあまり意識されないことが多いかもしれません。運動や仕事の上達を考える人にとっては、健康な時であっても、重力とどのような関係を結ぶかが重要なポイントになります。介護やリハビリの現場では、どうやって寝返りをするか、どうやって座るか、立つか、起き上がるか、歩くか、と重力と正面から向き合うことになります。(解決のために、筋力の問題とするか、認知の問題とするか、人間観が問われます)
健康な時は、重力を利用する為に筋力を使う動きだけでなく、重力に逆らうために筋力を使う動きも多用されます。あなたは、あおむけの姿勢から起き上がる時どのようにして起き上がるでしょうか。そのまま上半身を折り曲げて起き上がる起き方は、重力に逆らうために筋力を使う動きです。しかし何らかの理由で、重力に逆らう使い方ができない時、重力を利用しながら起き上る動きを模索することになります。新生児や幼児が発達の途中で、座ったり立ち上がったりするその姿に、解決のヒントがあります。
重力に逆らう為に筋力を使う動きが間違っているというのではありません。問題解決のためにその方法として二つ以上の方法を身につけているほうが望ましいのだと言っています。重力に逆らう動きの為の筋力の使い方しか知らない人は、介護する時、リハビリの援助をする時、そのような使い方を指導することでしょう。
ここでは、今一度、重力を利用する動きを、寝返りの動きを通しておさらいしてみましょう。筋力増強以前に、自分自身のからだの中をめぐる情報の差異に対して、気づきが必要です。仰向けに寝て、頸椎はなるべく動かさないで、頭蓋骨を動かしてみましょう。うなづく動きと顎を前に出す動きです。
次に、左右に少し動かします。筋肉のストレッチが目的ではありません。差異を感じ取ることが目的です。
では、皆さんそれぞれ、あおむけの姿勢から左が下になるように横向きの姿勢へ寝返りをしてみてください。どこから動き始めるか。その動きがどこにどのように伝わっているか。どこを支点としているか。どこを浮き上がらせているか。動き始めの場所を変えて、行ってみてください。
頸を回転し伸展することから始めることができます。右手の指先からも可能です。あるいは右肩からでも。右腰でも。あるいは、左足を右下に滑り込ませることからでも可能です。右腕から始める時、掌はどのようになっているでしょうか?床に向かってますか。天井に向かっていますか。どちらが動きやすいでしょうか。これは武道の受け身と相通じる動きです。いくつもの動き方を知っていると、例えば脳梗塞後に、マヒしたところを回復させるための動き、マヒしたところではなく他の筋肉を使った代償的な動き、どちらを選ぶか、自分で選択することができます。
何度も繰り返しますが、重力に逆らうために筋肉を動かす動きが間違っていると言っているのではありません。それも一つの方法です。重力を利用する為に、姿勢を変えるために筋肉を使う動きもあるということです。そして、その場合姿勢を変えるための動きには、重力に逆らう動きも含まれています。
問題解決のための方法を二つ以上身につけ、それらを選択したり、組み合わせたりする、もう一つ上からの視点、階層性が大切ということを述べています。
階層性を身につけること、それが上達です。
内容についての質問は 090−6987−6679へ