生きることの多重性と多層性

 人間が生きるということ、行為することには、多重性・多層性があると思っています。
 
 例えば毎日の食事。お腹が空き、(血糖値が下がり)、生存の為のエネルギーを補給するといった生理学的な目的だけが、食事の目的ではないと思います。
 歓迎会とかを見ればわかるように、一緒に食事をするというのは、その集団に所属するという意味があります。英語のCOMPANYの語源は、一緒のCOM- 鍋PAN をつつくというところからきていると以前聞いたことがあります。日本語にも同じ鍋のつついた仲だという言葉があります。また、かつてエスキモーといわれたイヌイットの人々は、大事な客人に妻を提供しもてなしたりする風習があったそうですが、客人は夫婦の食事の場に入ることは許されなかったということを、以前本で読みました。
 
 食事がそうならば、排せつもまた多重性や多層性があると思います。別にスカトロジーの話をする意図でいっているのではなく、生理学的な欲求に従って排せつするだけでなく、排せつという行為は、自分が社会のどの部分に属しているかも表しているように思います。健康である人にとっては、独りでトイレへいって排せつできるのは当たり前の行為でしょうが、それが出来なくなると、人間の尊厳とか自分が社会の中でどのような人びとに属しているかという自覚や意識に関わってきたりします。
 
 掌にリンゴを乗せた時、その肌触り、色や光沢、温度や重さ、香りなどリンゴの属性の多重性を感じることが出来ます。
 
 人間の一日を考えた時、今日という日は、時の流れに組み込まれた今日、昨日あっての今日、明日に繋がる今日であると同時に、今日の為の今日、二度と同じ日はない今日でもあります。
 
 明日の為だけに今日を生きると、「疎外」となります。