野口体操のことなど

今日の朝、瞑想をしていて、ふと野口体操のことを思った
野口体操のことといっても色々あるが
  
「生卵は誰でも鏡の上に立てることができる」という話
 
これまでに何度かこのブログに書いてきたが、
自分にとって、野口体操に出会ったことで、人生の転機を迎えた
 
今から30年以上も前、竹内演劇教室で、野口三千三先生から直接野口体操を知った
 
だから今本棚にある「原初生命体としての人間」は、
三笠書房発行のものだ
 
教室では
まず問いかけがあったように思う
「生卵を立てることができるか、できないか」
「できると思う人は、実際前に来て立ててみてください」
「やってみる前から、できないと思う人にはできない」
 
以来、何度も卵を立ててきた
生卵も立つし、ゆで卵だって立つ
子供たちや大人達とも、立ててきた
 
今日の朝ふと思ったのは
「やってみる前から、できないと思う人にはできない」
それはしかり
では逆に「できると思うとできる」か?
 
できるとは限らない、ということ
それと、
立てることができるか、できないかなら
出来る出来ないを考えるだろうけど
 宙に浮かして静止できるかできないかなら
殆どの人が最初からできないと思うだろうということ
 
30数年たって
今も野口体操は自分の中で息づいていて
だからこそ
卵が立つことと、人間が立つことは、同じとは言えないと思う
 
たとえそれが有精卵の生卵であっても
卵は、自分の筋力で自分の位置を調整して立ったり
そのバランスを保つのではない
人間は、静止しているようでありながら、
常に、環境からの影響や、自身の変化、例えば呼吸や心拍の影響を受け
微妙に微細に揺れ続けている
(ホメオダイナミクス
 
野口先生も、本の中に書いてある
「物の安定と人間の安定には本質的差異があるが、卵が立つ原理は、逆に人間の立ち方の本質をしめしているのだが・・・・。」24頁(三笠書房発行)
 
「立つ」ということば
卵が立つときの「立つ」と人間が立つときの「立つ」は同じとは言えない
 
そもそも
「人間(=自分)とは何かを探究する営みを、体操と呼んでいる」
と4ページにある
 
出来る出来ないを問題にすることが、体操ではない
がどうしても、できる出来ないを問題にしがちだ