「禁欲的」そして「理詰め」

高校の時以来の友人と、メールで友人ならではの対話を続けた。
 
その対話の中で、自分自身について気づかせてもらった
それは、自分はやっぱり「禁欲的」で「理詰めだ」ということ
 
自分たちは、今生きている状況の中で、いろんな問題を抱えている
その問題解決にはいろいろな道があろう

別に「禁欲的」で「理詰め」な生き方だけが解決法ではないのに
どうしてもそれを選んでしまうし、身近な人に対しても、同じ道を勧めてしまう

諸行無常 一切階苦 
「人間は必ず死ぬものだ」ということを前提にして、苦の解決を考える
死後の世界を認めた解決は勧めたくない
ものの見方の変更を伴った理詰めの解決を勧めようとする
その理由としては、ものの見方が変わらないと、同じことを繰り返すだろうからという理由で
 
ところが、苦しみの解決は、必ずしも、禁欲的で、理詰めでなくてもいい
問題が解決され、その後で「理」がわかり、物の見方が変わり、時に禁欲的になったりする
 
そうは思っていても、やっぱり禁欲的で理詰めの道を選んでいて
回りのものに勧めていることに気づかせてもらった
 
じゃあ、今からどうするか
やっぱり自分自身に対しては、「理詰め」は続けるだろう
周りのものに対しては、強制しないように気をつけたい