「たまゆら」その後

「人は、世界をありのままではなく、その人が観たいように観る」
 
これは、私が、人生の微妙な事柄について、他者と話し合いをするときの大前提のひとつです。
ある物事についての微妙な、あるいは深い話し合いは、この前提の合意あってのことです。
残念ながら、すべての場合において、この合意に基づき話し合えているわけではありません。
 
前提の合意なしに、話を発展させる技量、不毛な議論にしない能力は、今の私にないと思っています。
それどころか、合意を取り付ける能力についても、いつも模索しています。
 
日本語の文としては、大抵の人は、「人は自分の観たいようにこの世界を観る」という文章の語句を理解することと思います。
しかし、日本語の文として、語句を理解することと、この文章の内容について合意することは、別だと思っています。

又、一度理解したつもりになっていても、
日常の自分の一つ一つの見解や感情の源泉について、
自分は今自分の観たいように見ているんだという「自覚」を持つことは難しいです。

「人は観たいようにこの世界を観る」という文章自体を、人それぞれに解釈したりします。
 
そもそも「理解」ということがどういうことか、あまり考えずに「理解」という言葉を使ったりします。
 
たまゆら」に関していえば、「たまゆら」のことを知ったのは最近なので、
たまゆら」について述べている人々との交流はあまりないのですが、
たまゆら」を生命的存在と捉えている人のブログを読む限り、
「観たいように観る」という合意を持ち合うことが、難しいと感じました。
 
ですから現象が存在すること以上の話し合いや、意見交換は難しく思っています。
 
このことは、私は「たまゆら」を認めない、私は、唯物論者であると宣言しているわけではありません。
 
たまゆら」でなくとも、花も草も、いつも彼らは宇宙開闢以来のメッセージを、
現に目に見える形や色や、実際に鼻で感じることができる香りで、メッセージを送ってくれています。