ゲド戦記を読みながら

「悟り」とは、何事にも悩まなくなることではなく
冷静に悩めるようになること
「瞑想」とは、神秘世界に行くことではなく
現実的な事柄について、冷静に悩むこと
 
大賢人になった後も、ゲドも悩み
悟りを開いた後も、ゴータマは悩んでいた
 
世界は動いている
動いている限り悩む
 
ゲド戦記を読みながら、そう感じている
 
 
今の自分の思いでは、
にわとりの生の声(ありのままの声)は聞こえないと思っている
自分が使用している文化を通してしか、声が聞こえないと思っている
 
ところが、禅には長い瞑想実践者達の伝統があって
文化の耳(第六識や、第七識)を通り越して
感覚器官(前五識)から直接、第八識(阿頼耶識)に、音が届くと言う
 
この辺は、言葉で議論しても意味がなく、実践で確かめるしかない
 
うすうす感じていることはある
「虹は何色か」と言葉で問い、言葉で答えようとすれば
民族によって、使用している言語によって
六色とか、七色、あるいは三色と言う答えが帰って来るかも知れないが
問わなければ 虹は虹であって 何色でもないだろう
 
永遠の生を求めれば、それが苦の因となり
極楽や悟りを求めれば、それが苦の因となるのだろう