宇久井半島にある宇久井ビジターセンター(環境省)で、毎月第一週の日曜日に、「植物と虫の名前を覚えない自然観察会」というインタープリテーションを行っています。

次は、10月1日に、第3回目を行いますが、第3回目を通り越して、第4回目の講演原稿が出来たので、掲載します。

「観察の理論負荷性」を如何にして、理解していただけるか、今回は、「にわとりの鳴き声」がどう聞こえるかを例に、解説してみました。
 あと、ルールとメタルールもポイント。


第4回「植物と虫の名前を覚えない自然観察会」講演原稿2006.11.5 
 
<大テーマ、目的>
 自然観察会にしては変わった題名がついています。毎回、その変わった題名の意図を語ってきました。今回も、そのことから始めたいと思います。
 別に名前を覚えることを否定しているのではありません。名前を覚える前に、先ず自然に触れ、宇久井半島を好きになって欲しい。宇久井半島で安らいで欲しいと願っています。
 更に大きくいいますと、「宇久井半島に来た時だけでなく、いつでも何処でも、どのような時であっても、安らぎのある人生を歩んで欲しい」「この宇久井半島を舞台にした自然観察会を通して、安らかな人生を歩む智慧を、共に学んで生きたい」という思いがあります。

 いつでもどこでもどのような時でも、安らぐ心、そのような心を得るヒントが、自然との触れ合いの中に、そしてじっくり観察するという行為の中にあると感じています。
 といいますのは、私自身、24歳の時、仕事を辞めて、東南アジア一人旅というか放浪旅に出ました。日本を離れ、日本と自分自身をみつめなおす為でした。
 ところが、旅の途中、タイで、赤痢に罹ってしまいました。お腹の中に棒を突っ込まれてぐりぐり回されたような、今まで味わったことの無い痛みでした。下痢を通り越すと、どす黒い腸壁が剥がれ落ち、げっそりと痩せました。
 痛みが激しくなって、「いよいよ死ぬな」と思ったとき、「ああどうせ死ぬのだったら、熊野の山の中で死にたい、あの清流のほとりで死にたい」と思いました。
 死んだと思ったのは、あまりの痛さに気を失ってしまったのでした。
 その「故郷の森の清流のほとりで死にたい」という思いと、偶然宿の近くに中国人のお医者さんがいて、治療して頂き、日本へ帰ることが出来ました。

<本日のテーマ ゲド戦記
 徐々に今日のテーマに入っていきます。皆さん、改めて質問いたしますが、死にたくないですね。
 死にたくないけれど、私達人間は、自分がやがて必ず死ぬということを知っています。
 自分がやがて死ぬということを知って、私達はそのことに態度を決定しなくてはなりません。
 その態度の決定の仕方は一つではありません。
 
ある人は、苦しまずに死にたい、満足して死にたいと願って、自分がいつか死ぬということを、心に刻みながら生きていきます。「一期一会」なんていう言葉があります。

ある人は、そのことを忘れて暮らそうとします。その忘れ方にも、程度があって、極端な人は、何が何でも忘れようと、死という言葉を使うこと自体を嫌がったり、そういった場面を目にすることを極端に避けようとしたりします。

ある人は、過去も現在も未来も全面的に信頼・受容して、忘れています。
 
やがて死ぬということを、心に刻むにしろ、あるいは忘れるにしろ、私達は、今日を生きていくのに、あるいは心地よく死ねるように、つまり自分にとって都合がよくなることを願って、自分自身、他の人々、自然環境に対して働きかけます。それが生きるということです。

私達は、自分自身、他の人々、自然環境に働きかける訳ですが、やたらめったに働きかける訳ではありません。
 
どうやって働きかけるかというと、自分にとって、都合が良くなるように働きかけます。その時、人生訓とか信念、家風とか、常識とか、風習とか、あるいは伝統、文化、法律、法則、真理とかそういったものを参考にします。
 人生訓を初めとして、常識とか法律といったものは、これに随って行動すると、都合にいい状態になりますよ、と述べているからです。

例えばお酒なんですが、先ず脳の成長のことを思い、法律で、20歳以下の人は一応禁止されています。一方、酒は百薬の長、といったりします。これも一応なのですが、宗教の聖職者は飲まないことにしていることが多いです。車の運転中、あるいはその前には、これも一応事故を避けるためには飲みません。眠れないからといって、飲む人がいます。
 法律や道徳、常識といった自分以外の人が既に決めていることに、きっちり従う人もいれば、そういうものよりも、自分の考え、信念、感性に従う人もいます。

このいつか死ぬ、ということについても、色々な考えがあります。
「命あっての物種」という諺があれば、先ほど言った「一期一会」という言葉もあります。
また、「輪廻転生するのだ」という人もいれば、「人生は一度きり、土に返るのだ」という人もいます。
 
色んな考えがある中で、人と人は共に暮らさなくては生きていけないので、考え方の違いが、苦しみの元になったりします。
 人間が味わう苦しみというのは、いつか必ず老いて死ぬという自然の摂理に基づくものと、対人関係によるものがあります。
 
 さて、一体どうしたらいいのでしょう。そして、本日の自然観察会とそういった苦しみの解決と、どういう関わりがあるのでしょう。

<苦の解決>
 対人関係の苦しみを解決していくには、
 先ず、ものごとの考え方、捉え方は色々あって当たり前、ということを認めあうことだと思うのです。
 
このことについては、「科学哲学」ということを題材にこれまでも話してきました。
人生訓とか法律、道徳とか人間が決めたことだけでなく、自然界の普遍の法則、真理と思っていることも、実は色んな捉え方がある、ということを語ってきました。
 (そもそも、人生訓とか道徳は、自然界の法則、真理を拠り所としています)
 
 2回目の観察会のとき、にわとりの鳴き声がどう聴こえるかを例に、そのことを話した訳ですが、今一度考えて見ます。
 皆さん、ありのままに、にわとりの鳴き声を聞いたとき、なんと鳴いていますか?
日本人ならば、当然「コケコッコーと鳴いている」と答えるでしょう。
 
 ところが、外国語の知識のある人は、国によって、聴こえ方が違うということを知っています。例えば、英語では、クックドゥドルドゥですね。ドイツ語では、キッキリキーです。変わったところでいえば、イタリアのシシリー島では、コカコーラと聞こえているそうです。ナイジェリアになりますと、ザカーラヤーイクウカー、フィリピンだと、チックタラオーだそうです。
 
日本人なら、コケコッコーと聞こえるといいましたが、実は、江戸時代まで遡ると、コケコッコーじゃないのです。鶏はコケコッコーと鳴いている、と思うようになったのは、明治36年以後なんです。
 
日清戦争の時、全国から兵隊を集めました。そして中国へ行った訳です。その時、上官の命令が、上手く伝わらない、出身地が違えば、言葉が違う。そこで、明治政府は、東京の中流家庭が使っていた言葉を標準語として制定します。その時、教科書に、「鶏はコケコッコーと鳴きます」という記述があり、それが広まって、現在の日本人は、鶏はコケコッコーと鳴いているように聴こえるようになりました。
 標準語制定以前、日本の各地では、どのようにニワトリの声を聞いていたかというと、伊勢神宮遷宮式に伝わっているのは、「カケコー」です。狂言では、カウカウカウコキャッコウと表現するようです。
 北のほうから言えば、青森県南部ではカッケロコオ、新潟県佐渡では、ココロコオ 奈良県、コカコッコオ 島根県 ケケエロ 鹿児島県 コケコ 沖縄県石垣島 コウコゴッコオ などとなっています。

このことは、何を意味しているかというと、ありのままに聞いているつもりでも、私達は常に文化の耳を通して聞いているということなんです。

「にわとりはコケコッコーと鳴いている」という表現は、正確な表現ではなく、「私には、鶏はコケコッコーと鳴いているように聞こえる」と表現するのが、より正確な表現です。
 これは、単に面白い話題ではなく、とてもショッキングなことを言っているんです。
 聞くことだけではありません。見ること、触れること、嗅ぐ事、味わうこと、全て文化を通して、感じています。ありのままではないのです。
 ありのまま、客観と今まで思ってきたことが、実は客観とはいえないのです。
 
 実は、西洋哲学や仏教の世界では、客観はありえるかということを巡って、数百年も論争が続いているのです。
 
 ですから、生まれ育ちが違えば、考えること感じること違って当然ということなのです。自分と違う感じ方考え方をするから、変だと思わないこと、これが人とヒトが仲良く生きていく上での第一条件だと思います。
 
とはいえ、社会生活、共同生活を送っていくには、一人一人が違った感じ方考え方をするからこそ、仮にルールを作らねばなりません。それが、言葉であったり、家風であったり、道徳であったり、風習や法律であったりするわけです。
 
しかし、先ほどから考えているように、このルールを巡って、きっちり守ろうとする人もいれば緩やかに守ろうとするヒトがいます。
 そもそもルールをどうやって決めるか、あるいはどうやって変えるかということも大切です。
 ルールを決めたり変えたりするには、ルールを決める為のルールが必要です。
 
 例えば、お酒は20歳を過ぎてから、というのは一つのルールですが、参政権は20歳以上というのは、一つのルールであると同時に、ルールを決める為のルールです。あるいは主権在民とルールがあるから、参政権というルールが定められます。
 
 ということは、それぞれ考え方の違うものが共同のルールを決める時、そのルールを決める為のルールが必要であるということです。
 憲法を改正すべきだという考えの人と、憲法を守るべきだという人の意見は違っていますが、そのベースには、主権在民、民主主義というルールがあるのです。
 こういうルールを決める為のルールを、メタルールといいます。
何度も繰り返しますが、人とヒトが仲良く暮らすには、先ずお互いの感じ方、考え方が違って当然ということを認め合うということが大切です。
 次に、違いながらも、もっと上の次元での、あるいは根源的な次元でのルールを作り出すためのメタルールを見い出していくことが大切ということです。
 違いを認め合うこと、と同時に、次元を超えた共通の視点に立つことが大切ということです。少なくとも3つの次元のレベルが必要だと思うのです。
 
例えば先程の、「にわとりの鳴き声こけこっこ」のことで言えば
先ず、耳に関わる機能が働いている状態が必要です。(赤ちゃんレベル)
次に、コケコッコと聴こえるレベル、あるいは教えられるレベルがあります。
常識レベルといいますか、幼児や子供レベルです。
その次に、色んな聞こえ方があるということを知るレベルです。
相対性レベル、青年、大人レベルです。
更にその上に、相対性をも超えるといいますか、離れるレベルがあると思います。覚醒レベルといいますか、囚われないレベル。
 そして、相対性レベルと相対性を超えるレベルの間に、魔境レベルというか、相対性を超えていないのに、自分では越えていると思い込むレベルがあると思うのです。(死ぬことへの態度にも、同じようなレベルがあります)

3つのレベルを
データや技術のレベル、理論のレベル、思想のレベルといってもいいです。
輪廻転生ということを例にするならば、
死ぬ間際まで言った人が、あの世の入口は、お花畑のようなところだった、といってみたり、暗い長いトンネルの中を通り過ぎて、光に満ちた世界だった、とか、懐かしい人が現れて、人生を振返り、次にどういう人生を歩むべきか、教えてくれたという報告をしたりします。これがデータです。
 
そういう報告や状況を沢山集め、
見えるはずがないことを見えたりするのだから、魂や輪廻転生はあるんだ、とある人々はいいます。(仮説を立てます)
それは、大脳の仕組みの一つなんだ、という人々がいます。
それは、心理的作用、文化によるものだという人々がいます。
これらは理論のレベルです。
 
更に思想のレベルがあります。
理論的には輪廻転生は無い、と普段考えている人であっても、例えば自分の家族や友人がもうじき亡くなるという状況の中で、その人が輪廻転生を信じていれば、あえて否定したりしないと思います。それは、理論のレベルではなく、思想のレベルで、幸せに、安らかに死を迎える為なら、あえて否定しない、論争しないという配慮だと思います。
 
そういった配慮のある人であっても、亡くなった人と会話できる機械だといって、高額な機械を売りつけようとするセールスマンや、あるいはあの世と交信することができるようになりますよといって、法外な料金のセミナーに勧誘しようとする人がいたら、その人と議論すると思います。

健康法を例に、3つのレベルを考えると
Aさんはウコンを飲んで、肝臓の数値が良くなった、とか
Bさんは、還元水を飲んで、アトピーが良くなった、という話は、
データレベルの話です。

ウコンや還元水は、活性酸素を除去したり、働きを抑える、だから、数値が良くなったり、アトピーが治るのだ、という話は、理論レベルの話です。
 
人間は人間自身の手で、自分の運命や人生を変えることができるのだ、とか
自分自身で変えられるところと、変えられないところがあるのだ、という話は、
思想レベルの話です。
 そして、変えられる領域と変えられない領域にはっきり線を引くのが難しく、人は悩んだりします。(ニーバーの祈り)
 
まとめますと
人はそれぞれ違った感じ方考え方をするということを認めあうこと
共通のルールを決める為に、
データのレベル、理論のレベル、思想のレベル、少なくともこの3つのレベルの区別ができて話し合えることが、人と人が仲良く暮らしていく上で必要になると思います。
 
残念なことに、世の中には、人それぞれが違った考え方、感じ方をすることを認められない人もいますし、三つのレベルの違いを見分けることが出来ない人もいます。
そういった人とも暮らしていかねばなりません。
そういう時はどうするか、その時点では諦めるしかないと思います。かのお釈迦様だって、そうしてきたのです。

一番最初の話題に戻りますが、「植物や虫の名前を覚えない自然観察会」
「ぼく知っているもんね」と自慢する為に、名前を覚えるのではなく、先ず自然に触れ、安らいでもらいたい。自然の中に見つけた安らぎの種を、日常生活の中ででも育てていって欲しいと思っています。

さて、今日の本題に入っていきます。
本日のテーマは、宇久井半島でゲド戦記を語るです。

 「ゲド戦記」といっても、当たり前の話ですが、知っている人は知っているし、知らない人は知らないでしょう。
 宮崎駿さんの息子さんが、初めて手がけたアニメーション映画の題名ですが、ゲドという魔法使いを主人公とする「ゲド戦記」という文学が元になっています。
 
ゲド戦記について 魔法と世界 生と死>
 皆さん今日は、童心に帰ってみましょう。
 もし皆さんに、魔法を使えるの能力があるとしたら、それを育ててみたいと思いませんか?
 ま、二本の足で歩けるとか、言葉がしゃべれるとか、コンピュータでインターネットをするとか、携帯電話で通信するとか、石油を使って、電気を起こすとか、飛行機で空を飛ぶとか、ナイロンやプラスチックを作るとか、他の動物達にしてみれば、人間は魔法使いでしょうけどね。
 
 ゲド戦記という文学は、全6巻の長編なので、細かいストーリーについては省略しますが、ゲドという魔法使いの誕生から、修業、様々な冒険が大きな粗筋です。
 
テーマとしては、「世界は、全てのものごとのバランスの上に成り立っている」ということです。
 
皆さんもし、魔法が使えるとしたら、どのような魔法を使って、どのようなことがしたいですか?
 
 ゲド戦記の主人公ゲドも、魔法の才能があって、魔法使いの学校へ行くことになります。学校では、確かに、雨を降らしたり、風を起こしたりする魔法を習いますが、学校が教えようとしていることは、そういった技術ではありません。あらゆる出来事、あらゆるもの達のバランス、つながりの上に、この世界が成り立っているということを、教えようとしているのです。
 
 ですので、もし魔法を使うにしても、この世界のバランスを崩してしまうような使い方をしてはいけない、ということなんです。
 人間以外の動物達からみれば、科学技術は魔法です。この魔法も、世界のバランスを崩すような使い方をしてはいけない、と動物や植物は思っているのではないでしょうか。
 
 ゲドの冒険というのは、崩れそうになったバランスを取り戻す冒険です。

<生と死>
 世界はあらゆる出来事のバランスの上に成り立っています。ですので、生があれば死があるというのが、この世界のバランスです。
 
宮崎吾郎さんの映画の中で、ゲドは言います。
「不死は生を失うことだ…
 死を拒絶することは生を拒絶する事なのだぞ」
「この世に永遠に生き続けるものなどありはしないのだ。
 自分がいつか死ぬ事を知っているということは、
 我々が天から授かった
 素晴らしい贈り物なのだよ」

今日の自然観察会は、この言葉を身をもって感じようと思うのです。

 森の中でも解説する予定ですが、宇久井半島の森の中に入って空を見上げますと、木々の葉っぱが天井のようになっています。モザイク模様というか、ステンドグラスのように、空間を分け合って、覆っています。
 葉っぱ達は、隣の木の葉っぱと擦りあう様になると、成長ホルモンの分泌が変わって、それ以上伸びようとしません。
 これは、人間の細胞も同じです。一個の受精卵が分割して、最後は約60兆の細胞になるのですが、秩序を持って分裂を繰り返します。
 同じ人間でも、肌の違い、身長の差はありますが、右手が左手の2倍の長さの人とか、左目が右目の3倍の人といった人はありません。心臓が4倍もあるとか、胃の大きさが6倍もある、といった人はありません。
 皆さんバランスよく分裂しています。
 
 ところが、このバランスを壊す細胞があるのです。それは、がん細胞なのです。
私達の細胞は、ほぼ分裂の回数が決まっています。肝臓を切り取れば、又再生するのですが、ほぼもとの大きさまで再生すると、再生は止まります。
 ところが、がん細胞というのは、際限なく分裂し、際限なく増殖しようとします。つまり、不死なんです。その不死によって、生命が脅かされるのです。
 先程のゲドの言葉です。
「不死は生を失うことだ」

もう一つ、ゲドは重要な言葉を言っています。
「この世に永遠に行き続けるものなどありはしないのだ。
 自分がいつか死ぬ事を知っているということは、
 我々が天から授かった
 素晴らしい贈り物なのだよ」

私達は、大人になれば、自分がやがていつか死ぬということを知ります。
このやがて死ぬことを知っていることを、素晴らしい贈り物と感じるにはどうすればいいのでしょうね。
私達はやがて必ず死ぬのだ、と知ってから、常にそのことを心に刻み続けるか、そのことを忘れて日々を過ごすか、各自の自由です。
私自身としては、忘れて暮らしていても、いつかその日はやってくるのだから、それなりの覚悟をして、いつも忘れずに生きていたいと思っています。
 それも、親しみを持って、自分の死をみつめたいと思っています。
 
 忘れようとして、よく観ないから、死ということが、余計怖くなるのだと思っています。親しめないのだと思います。
 
<よく観る>
 よく観る。この時の「みる」は、観察会の観の字の観るです。この自然観察会は、名前を覚えることよりも、よく観ることをお勧めします。既に知っている植物であっても、改めてよく観ます。生と死、光と影がどのような関係にあるか、よく観るのです。
 
<言葉の副作用>
生と死が対立しているように感じるのは、それは言葉の副作用なんです。
言葉と言葉の関係と、言葉と実際にそこにあるものとの関係をじっくり観察してみましょう。
 幹という言葉があります。根っこという言葉があります。幹は根っこではありません。根っこは幹ではありません。では、実際に森に出かけ、幹と根っこの境界線を探してみてください。そういった境界線はありません。
 生は死ではありません。死は生でもありません。でも実際森の中に行って、穴の開いた葉っぱを見つけてください。その葉っぱは生きていますか、死んでいますか?
 
 穴の開いた葉っぱの解説をしますと、例えば、葉っぱに何らかの傷がついて、そこから病原菌やウイルスが進入します。色々防護するのですが、その防護も虚しく、奥深く進入したとします。すると、その病原菌の周りの細胞が自ら死んでしまうのです。

 毎年毎年、草木は、花をつけ、実を生らします。でもどうでしょう、全ての実が地面から芽を出すでしょうか? 限られた実だけが、芽を出します。芽を出しても、大きく成長するのは、更にわずかです。では、芽を出さなかった実や、枯れた草木はどうなったでしょう。土になります。土になって、他の命を支えます。そこにも、生と死の境界線はありません。

<現代的輪廻転生>
 先ほど、輪廻転生の話をしましたが、私は別にカルト主義ではありません。
 といって、唯物主義者でもありません。
 輪廻転生について、一つの考え方を押し付ける気はありません。
 各自が各自の輪廻転生説を創り出せばいいのだ思っています。
 
 ただ、各自の輪廻転生説を作り出す為に、楽しい材料を提供できたらいいなと思っています。
 例えば、私達には赤い血が流れています。血液の中にヘモグロビンという鉄分があって、それが酸素と結びついて細胞の隅々に酸素を運びます。
 大人の人間のからだには平均して約4gから6gの鉄が存在しているそうです。この鉄分は何処から来たかというと、食べ物から、そしてつまりは大地からやってきます。
 では更に、その大地の鉄分は、どうやってできたかというと、空に輝いている恒星が寿命を終え、最後に大爆発を起こし、超新星となり核融合する時に出来たといわれています。
 つまり、私達のからだの中には、かつて星だった名残がいつも流れているのです。
 
 目を森に転じますと、草木は緑色をしています。それは葉緑素というものが草木の中にあるからです。葉緑素とヘモグロビンと、構造はほぼ同じで、中心に鉄があるのがヘモグロビン、中心にマグネシュームがあるのが葉緑素です。
 このマグネシュームもまた、星が大爆発した時に生まれたものです。
 
 植物の名前を知らなくとも、その緑色を観た時、ああこれは遠い昔の星の名残なんだな、と思いつつ散策すれば、楽しくなると思いませんか?
 では、実際散策に出かけましょう。

「無道」
よくあれかしと願いつつ 努力している君なのに 
どの道も閉ざされ 立ち尽くす君
悩みなさい 誠実に悩みぬきなさい
道無きを 彷徨い 彷徨い 彷徨い それが智慧となることでしょう


来年5月の第10回までの予定

第一回 平成18年7月30日
テーマ 「自然保護」とは、具体的にはどうすることでしょう?
     かつて里山だった宇久井半島で考えてみましょう
第2回 9月3日(日曜)
テーマ 宇久井半島で探そう 考えよう
    人間と自然の繋がり・関わり 不老長寿の薬
第3回 10月1日(日)         
テーマ 「地球の歴史の道」を作って
     地球の歴史を体感してみましょう
第4回 11月5日(日)
テーマ 宇久井半島で「ゲド戦記」を語る
    森の中の光と闇 生と死
    「自分がいつか死ぬ事を知っているということは、
     我々が天から授かった素晴らしい贈り物なのだよ」
第5回 12月3日(日)
テーマ 年末年始の行事と宇久井半島の植物達
    お正月には、各家庭では、注連縄を玄関に飾ります
    注連飾りは、稲作文化(蛇)を表しています
    漁師さんたちには、漁師さんたちのお正月の準備があります
第6回 平成19年1月7日(日)
テーマ 「天道と人道」土手小僧といわれた二宮金次郎に学ぶ
     更に大原幽学・佐藤信渕について
第7回 平成19年2月4日(日)     
テーマ 子孫を残す為の植物達の面白い戦術
第8回 平成19年3月4日(日)
テーマ 自然観察と哲学と心理学
    レクチャーの後、ソクラテスゲーテのように
    宇久井半島を逍遥します
第9回 平成19年4月1日(日)
テーマ  西行と熊野の桜
第10回 平成19年5月6日(日)
テーマ テーマ 森が見る夢、どんな夢? 
    森の木々を脳細胞に例え、脳科学の目で、森を観察する
    青葉アルコール 青葉アルデヒドを味わいましょう