第7回植物と虫の名前を覚えない自然観察会予定原稿

第7回予定原稿 *
 これまで6回開催してきた「植物と虫の名前を覚えない自然観察会」ですが、
どうして「名前を覚えない」という変わった題名の観察会にしたのか、あるいは、「観察」の面白さ、ということから話を始めてきました。
 今回は,観察会が掲げている目的「宇久井半島を安らぎの場にしよう」ということから始めようと思います。
 
 「安らぎ」という言葉の反対語はなんでしょう?皆さんどう思いますか?
 色々な答えがあるでしょうが、「苦しみ」もそのうちの一つだと思います。
 
 仏教の開祖、ゴータマ・仏陀は、人生で味わうであろう苦しみを、「四苦八苦」という言葉で表しています。
 四苦とは、「生老病死」の苦しみです。それに、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五陰盛苦の四つを加えて、八苦といいます。
 
 生老病死の四苦は、人間として生まれてきた以上、誰もが味わうであろう苦しみで、「実存的な苦しみ」と言われています。
 愛別離苦や怨憎会苦は、人間関係の苦しみと言ってもいいでしょう。
 例えば、何事に於いても、10人人が居れば、何があっても自分に味方になってくれる人が1人、敵対してしまう人が2人、後の7人はどっちつかず、といわれたりします。
 学校や職場、地域社会、人間関係の苦しみはつきものです。嫌な人とも付き合わねばなりませんし、愛しい人、仲の良い人とも、別れなくてはならないときもあります。
 
 ゴータマ・仏陀も、王子として裕福な環境に生まれたのですが、出家し、苦行をし、修行をし、瞑想をし、悟りを開いて、我々の苦しみの原因はなんであるか、その解決をどのようにするかを説きました。
 
 ゴータマ・仏陀が悟りを開いたのは、森の中です。私達は、ゴータマ・仏陀と同じような修行は出来ませんが、森の中に入ることによって、生きるヒント、苦しみを解決するヒントが得られるのではないでしょうか?
 
 瞑想のことを、禅といいます。座禅と言う言葉がありますが、太極拳では、立ったまま行う瞑想が立禅、太極拳演舞を動禅といいます
 ですので、森の中を歩くこと、歩くことに引っ掛けて、「歩禅」と呼び、環境保全から還郷歩禅という言葉を造語しました。
<還郷歩禅> 
 森の中を歩けば、具体的にどのようなヒントに出会うでしょう?
 
 例えば「いつか必ず人は死んでしまうということに関わる苦しみ」について。隣の中国に、紀元前3世紀の頃、秦の始皇帝がいました。始皇帝という名の通り初めて、中国を統一し、万里の長城を作った絶大な権力を持った王様です。そんな王様でさえ、いつか死ぬと言うことは悩みの種で、「不老不死」を求めました。
 徐福は始皇帝の命を受け、日本に不老不死の薬を求めにきました。
 熊野地方では、天台烏薬がその薬だと言われていますが、佐賀県では、カンアオイがそれだと言われています。天台烏薬であっても、カンアオイであっても、不老不死は得られません。
 仏陀は「やがて死ぬ」という苦しみに対してどう解決したでしょう。般若心経の中に「不生不滅」ということばがあります。「生じることもなく、滅することもない」とはどういうことでしょう?

<不生不滅>
 第6回の観察会の時、皆さんにスケッチブックをお渡しして、森の中で、「冬」と「生」と「死」を見つけていただき、言葉か絵で書いていただくことを課題にしました。
 半島の森を散策していて、枯木の中からコガネムシの幼虫を探している人に出会いました。そのことから、「生」はコガネムシの幼虫、「死」は枯木と書いた人が居ます。
 コガネムシの幼虫は、枯木あってのコガネムシです。そこで、森の中の生と死は、境界線が引けない、生と死は循環しているという意見が出ました。
 「不生不滅」とは、このように「生と死の間にはっきりとした境界線は引けない、循環している」ともとれます。
 
<クラスとメンバー>
 これまでの観察会でも、話題にしてきた「クラスとメンバー」を、今回は特に取り上げて、「生命の循環」について更に詳しく考えてみようと思います。

 私達は、言葉を使って考え事をし、言葉を使って意思疎通、情報伝達をします。
 その言葉を使う上で、とっても大切なルールがあります。
 それは、
 「クラスを表わす言葉とメンバーを表わす言葉がある」
 (言葉とものごとには、階層がある)
 「メンバーが集まって、クラスを作り、そのクラスをメンバーとするクラス(メタクラス)がある」
 「クラスは、自らのクラスのメンバーになれない」 というルールです。

 具体的な例を示して見ましょう。
 一本の草でも、一本の木でも観察します。
 根っこ、幹、枝、葉っぱ、花などがメンバーとなって、木というクラスを作ります。
 木は、ウバメガシであったり、ズタシイであったり、カラスサンショ、マテバシイ、ヤマサクラ、真竹などです。それらの木や、土や、枯葉や、水、バクテリア、昆虫などが集まって、宇久井半島の森、というクラスが出来ます。
 宇久井半島の森や太地半島の森や日本の暖かい地方の森、更には台湾や中国大陸のあたたかい地方の森をメンバーとする照葉樹林というクラスが出来ます。

 別の例をあげますと、きゅうり、なすび、人参、大根をメンバーとして、野菜というクラスが出来ます。しかし、野菜は野菜というクラスのメンバーにはなれません。
 八百屋さんは野菜を売る店ですが、実際に並んでいるのは、茄子や胡瓜です。

<心は何処にあるか> 
 言葉には、クラスを表す言葉と、メンバーを表わす言葉がある、ということを前提とした上で、皆さんに考えて頂きたいことがあります。
 それは、心は何処にあるか?ということです。
 
 ミイラを作っていた、古代のエジプト人たちは、心は、心臓にあると考えていました。ミイラを作るとき、内臓を取り出しますが、心臓は残します。脳はどうするかというと、鼻の穴から、耳掻きのような道具でかき出します。

 エジプト人たちは、「命のあるものは暖かい、しかし脳は冷たい、脳はからだの冷却器官だ」と思っていたようです。

 私たち現代人の多くは、心は何処にあるかと尋ねると、「脳」と応えるでしょう。
 ところが、その脳を研究している科学者や、分子生物学者さん達の多くは、心と言うような実体が、私たちのからだの中には発見されないといいます。
 「心」というような器官はない、というのです。
 
 さてどうでしょう?あなたは心は心臓にあると思いますか、脳にあると思いますか、心なんてないと思いますか?
 
<心は何をメンバーとするクラスか、心は何のメンバーか?>
 先ほど、クラスとメンバーについて考えましたが、ここで先程の思考が生きてきます。心臓派であっても、脳派であっても、何処にもない派であっても、心を私のからだの中で探そうとしています。心を、心臓や脳と同じメンバーとして探しています。

 クラスとメンバーの違いがわかれば、「心臓派」「脳派」「何処にもない派」とは違う観方があることに気がつきます。心臓とか脳はメンバーであって、心はそれらが構成するクラスだと言う見方です。メンバーとしての心と区別するために、クラスとしての心を、「大和魂」とか「大いなる心」と呼んだほうがいいかもしれません。

<なぜ心を問題にするか?>
 心をどう捉えるかで、四苦八苦などの問題解決の仕方が違ってくるからです。

<要素論モデル> 
 こころをどう捉えるか、についていえば、要素論というものの観方があります。
 つまり、「心・精神と言う部分(メンバー)が、他の部分(肉体や私自身)を支配している」というモデルです。
 このモデルを支持すると、ある問題を解決するには、目にすることも、触れることも出来ない、心とか無意識とか性格というものに手を加え、そのあり方に変化をもたらさねばなりません。(どうやってその存在や変化を知るのでしょう)

 このモデルだと、死ぬことにまつわる問題は、肉体の死と共に心も終わると言う考えになるか、心とか魂という別の実体の存在を信じるということになります。
 
 「肉体と共に終わる」あるいは「心とか魂という目に見えない実体の存在を信じ、転生することを信じる」ということが間違いだと言っているのではありません。
 そう思うこと、信じることによって、その人自身が、そしてその周りの人々が、安らかに、そして充実して生きられれば、それに越したことはないと思います。

 これも前回参加者の皆さんに体験してもらったのですが、この絵は、ムンカー錯視といいます。

 黄色にはさまれた色はオレンジ色、紺色に挟まれた色は赤紫色に見えますが、実は同じ赤色なのです。下も同じく、黄色に挟まれた黄緑色と紺色に挟まれた水色に見えますが、同じ緑色なのです。
 同じ色であっても、周りの環境の違いによって、違うように見える例です。
 時代環境、人間環境、生活環境によってものの見え方が違います。現代人の観方が、あるいは、多数派の観方が唯一正しいとは言えません。
  私がこれから述べようとしている見方もひとつの見方です。

<システム論> システム全体が心ではないだろうか?
 電池式の、目覚まし時計を動かしているのは、何でしょう?
 電池式の目覚まし時計から、電池をはずすと、動きません。だから、電池が時計を動かしているのでしょうか? では、同じく、電池式の時計から、ある配線コードを取り外しても、あるいは歯車ひとつを取り外しても、時計は動きません。コードが時計を動かしているのでしょうか?歯車が動かしているのでしょうか?

 (システムについては、閉じられたシステム、開かれたシステム、複雑系サイバネティクス等話題は尽きないのですが、時間が限られているので、今回は触れずにいます。私たちは皮膚で他者と区切られてはいても、閉じてはいません。)
 
 脳とか心臓とかからだの一部に心があるのではなく、脳、心臓、神経系、筋肉、皮膚など、からだ全体、システム全体が「心」であるという見方もあります。
 そんな「私全体=心」がメンバーとなって、他の人々や生命体や環境と共に、更に「大きな心」を構成していると捉えることも出来ます。

 大いなる心(クラス)のメンバー、あるいはある一族のメンバー、ある家族のメンバーである私は、やがて死ぬことでしょう。
 しかしその死は、私というクラスが更に小さなメンバーに分かれていくことであり、
そのメンバーが、私というクラスのメンバーでなくなったとしても、「循環する生命」というクラスのメンバーであることに変わりはありません。


 <変わらない名前(クラス)と変化し続ける現象(メンバー)>
 台風で倒れ、あるいは年数が経って倒れたシイノキは腐って、シイノキというクラスは崩壊します。しかしそこに、コガネムシの幼虫が眠り、腐ったシイノキを食べ、糞は土になります。そうして、別のクラス・システムを作ります。宇久井半島の森というクラスはそのままだったりします。


 私は宇久井小学校を卒業しました。宇久井小学校という「名前」は、ここ数十年変わっていないでしょう。しかし、そのメンバーである生徒は、毎年新しく入れ替わっています。森も同じです。新しい芽が出て、一方で枯れて倒れる木があります。コガネムシの幼虫がそれを食べます。いつか土になります。その土から、新しい芽が出ます。それでいて、昨日の森も今日の森も同じように見えます。

 ゴータマ・仏陀の説いた不生不滅を、このように捉えることも出来るということですね。(虹は誰にでも見えますが、誰も触れることが出来ません。現象しているだけ)
 では、実際に森の中を歩いて、歩禅いたしましょう。

 関係のもち方が変化すれば、システム(心)も変化します。現象の内容が変化します。ゆっくり歩けば、ゆったりした気持ちになります。笑う門には福がきます。