無無明亦無無明尽  無老死亦無老死尽 ホメオダイナミクス

 ここしばらく体調を崩し、貧血気味で、すぐに心臓が波打ってくる
 それで、老いとその先にある死を感じている
  
 そんなときに浮かんだのが、般若心経の
 
「無無明亦無無明尽  無老死亦無老死尽」という一節だ
  
無明などない、といったすぐその後に、無明が尽きることなどないといわれる
老死など無い、といったそのすぐ後に、老死が尽きることなど無いといわれる
 
実に多くの人々が、これまで般若心経を講義解釈しているが 
学校の試験ではないので、自分が自分の人生で、この一節の意味を知るしかない
 
現実的に、この世に、老死が尽きることなど無いだろう
そして、私は確実に老いて行き、やがて死ぬだろう
 
どのような老い方、亡くなり方をするかは、細かいところまでは予測できないが
自分の体が思うように動かなくなり、家族やその職業の人々の世話になることだろう
痛かったり、思いのままにならなくて、苦しんだり、わがまま言ったりするだろう
 
ある人は、不滅の魂を想定して、その苦しみを乗り越えるかもしれないが
私は今のところそのつもりは無い
まだまだ元気なときに、頭の中で死を思い、その不安に駆られたときは
不滅の魂を想定することは有効かもしれないが、
例えばがんで、シーツの縫い目が皮膚に当たり、そこが痛むとき
不滅の魂という考えはどれほど有効か、そんなときも魂は不滅といえるのか、私には自信が無い
 
不滅の魂よりも、モルヒネの使い方の上手な医師にめぐり合いたいと思う
 
というのは半分冗談だが、私の死は、私だけで迎える死ではないということだろう
老いるという事、死ぬということ、その内容もまた、縁によって生じるということ
 
そう自覚した上で、さてどうするか
常日頃から、和顔施を心がけたいもの
常日頃和顔施を実行できないものが、
どうしてシーツの縫い目が痛いときにできようか
 
メンバーは死んでも、クラスは死ななかったりする
しかし、そのクラスが、メタクラスのメンバーだったりして
やっぱり長い目で見れば死んだりする
老死が尽きることなど無く、そして老死は無い
 
ホメオスターシスでは無く、ホメオダイナミクス
シーツの縫い目が痛いときといっても、一日中痛むわけではなく
その間に、桜を愛でることもできるし、思いやりを示すこともできる(ゆらぎ)
 
そうしながら、やっぱり、この世を去っていく
生命体は、生と死の間をゆらいでいる