ものこと 析空観 クラスとメンバー

平成19年○月 植物と虫の名前を覚えない自然観察会の予定原稿

ものこと 析空観 クラスとメンバー   こころとからだを同列にしない 精神の物質主義 things

<ものごと>
「ものごと」という言葉があります。ものごととは、「もの」と「こと」のことです。
「もの」と「こと」両方合わせて、わざわざ「ものごと」というひとつの単語を作っているのはどうしてでしょう?
 
単純に考えると、「私達がこの世界を眺め、観察し、感じているとき、ものだけでなく、出来事も感じているから、ものごとという単語がある」といえますが、
そのことについて、もう少し丁寧に考えてみましょう。

今手元にある本の文章の中から、そこで使われている言葉を「もの」と「こと」に分類して見ましょう。
例文
<私達の社会では、電話があり、テレビがあり、コンピューターが普及しています。通信の技術はどんどん進歩しています。だから、「そのうち紙なんて、いらなくなるさ」と考える人があるかもしれません。果たしてそうでしょうか。実は通信が発達すればするほど、紙も使われてきたのでした。>

 例えば、電話、テレビ、コンピューター、紙、人などは、「もの」に分類するでしょう。
 普及、通信、技術、進歩、発達などは、「こと」に分類するでしょう。

あるいは、皆さん「もの」を表す言葉だと思う言葉、「こと」を表す言葉だと思う言葉をいくつか上げてください。

「もの」 セーター 絵画 本 猫(動物) お金 自動車
「こと」 虹、風 握手 買い物
 
 では、改めてじっくり考えてみましょう。

虹は、幻想ではなく、実際見えますね。でも、それは「もの」ではなく、「こと」です。
幼児なら、虹をものに分類するかもしれません。
「虹の根元には、宝物が埋まっている」なんて幼い頃信じていたりしました。
でも、虹はものではなく、出来事です。行けども行けども、虹の根元にはいけません。
虹はいつでもどこでも見られることではありません。
水蒸気や光があって、虹という現象・出来事が生まれます。

風も、「こと」ですね。

では、改めて質問します。
先ほど、「もの」に分類した
「本」はものですか、ことですか?「セーター」はものですか? お金はものですか?
自動車は、ものですか?(ミリンダ王の問い)

虹や風が、いろんなものが集まり、ある条件の中で現象し、それを虹とか風というように
例えば、セーターは、毛糸が編まれて、セーターという現象になっているとは言えませんか?
 
本もそうです。先ほど、本はものに分類しました。
しかし、本も、紙やインクやのり等が、集まって、本という出来事になっているとは言えませんか?
 
セーターや本も「もの」ではなく、「出来事」ではないか?と考えたのは、実は、私が最初ではないのです。
今から千数百年以上も前の、これがなんと仏教のお経の中にあるのです。

そのお経は「ミリンダ王の問い」といいます。
ミリンダという名の王様とナーガセーナという仏教の僧侶の問答がそのままお経になっています。

ナーガセーナ尊者は王に問います。
「この討論の場にあなたはどうやって来たのですか?歩いてですか、車に乗ってですか?」
ミリンダ王は答えます。「車に乗ってやってきました。」
尊者は更に問います。
「車に乗ってやってきたといいましたが、車とは何ですか?
 車軸が車ですか? 車体が車ですか? 車輪が車ですか?」

そういう問答から、ミリンダ王は気づきます。
車というのはいろんな部品が集まったものであって、車は名称(こと)であって、車という実体(もの)があるわけでない。
 
つまり、今までの話の流れで表現すると、自動車も「もの」ではなく、虹や風と同じように、さまざまな「部品・物」、ハンドルやシート、エンジンなどが集まって現象している出来事・ことなんだ、といえるということです。

こういう見方を、「析空観(しゃっくうがん)」といいます。
 
今まで「もの」だと思っていたことも、析空観の見方で見ると、「こと」になってしまいます。
 
だから「ものごと」という言葉が生まれたのでしょうか?

最初「もの」と「こと」は別のものと考えて、分類しました。
しかし、「もの」と分類したものも、よく観察してみると、「こと」であったりする、ということがわかりました。
結論を急がずに、更に詳しく、ゆっくり考えていきましょう。


<階層論 クラスとメンバー>

自動車は、タイヤ、ハンドル、エンジン、ボディ、ランプ、シートといった部品「もの」達が、現象している出来事だといえます。
では一応「もの」と分類した「シート」に眼を移すと、「シート」もまた、カバーとかクッション材とか骨組みなどの部品・ものが集まって現象している出来事だといえます。

このことを、私達のからだを観察して考えて見ましょう。

私達のからだは、ものですか、ことですか?
からだ全体をみたとき、「もの」にみえますが、皮膚、臓器、骨、髪、眼、血液、体液などが集まった現象、出来事といえます。
皮膚とか心臓とか骨とかは、更に細胞が集まって現象している出来事といえます。
私達のからだは、約60兆の細胞でできているといわれます。
更にその細胞に眼を移すと、細胞膜やミトコンドリアや核が集まって現象している出来事といえます。
大体生物学を学校で習うとき、最初の方のページに乗っていますね。
更に更に、細胞膜に眼を移すと、イオンチャンネルとか、親水部、疎水部に分けられます。
いうまでも無く、細胞も、ものではなく、できごとといえますね。
更に更に更に、親水部に眼をやると、燐酸、アミン、グリセロールなどに分けられます。
更に更に更に更に、4回言いました、燐酸は、リン、酸素、水素に分けられます。
更に更に更に更に更に、今回は五回です。酸素は原子核と電子に分けられます。
更に更にといいたいところなのですが、きりが無いのでやめます。

以上のことから、次のようにいえます。
ある出来事の元になっているさまざまな部分、部品をメンバーと呼ぶことにします。
メンバーが集まって、クラスができます。
今度はそのクラスをメンバーとして、さまざまなメンバーが集まって、更に大きなクラスを現象させます。
 
こういうのを階層論といいます。

私達が、ものとよんでいる「もの」、あるいはこととよんでいる「こと」、今まで見てきたように幾層もの階層になっているんですね。
 「もの」と思っていたことが、実は「こと」であったり、「こと」は「もの」無しでありえません。
 ですから、日本人はものとことではなく、「ものごと」というひとつのことばをつくったのでしょうか。
 ちなみに、英和辞典で、物事を調べてみると、thingsとなっています。


さて、私達の思考の旅はどこへ行こうとしているのでしょうか。今しばらくお付き合いください。

<名前と関係>

皆さんにお願いがあります。今から私の言うことをよく聞いて、実行してみてください。
ここに鉛筆があります。 お願いというのはこういうことです。
皆さん、鉛筆だけ、鉛筆そのものだけを、観察してください。観てください。できますか?

鉛筆でなくてもいいのですが、ものそのものだけを観察する、ということができましたか?
そのものだけを観るということ難しいですね。

今机の上に、いろんなものが載っています。本、鉛筆、ノート、コップ
「色んなもののうち、本だけを見てください。」といわれ、本だけを見たとします。
国語的、常識的、日常会話的には、本だけを見ることができますが、哲学的にといいますか、実際的に、本を置いてある机を見ずに、本だけを見ることができますか?

今から、このホワイトボードに文字を書きます。
「この文字だけを見てください」といわれ、もし文字だけを本当に見たなら、文字を読むことはできません。
文字は、文字でないところがあって、文字になります。
黒いマーカーで描かれた文字の黒い部分と、文字で無い部分と両方あって、文字になるんですね。

私たちは、何かひとつのものを観るとき、ひとつのものだけを見ることは無く、
ものとそのものでないものとの「関係」も見ているのですね。

「あるもの」は、あるものという部分と、あるものでないという部分とで現象している出来事であるといえますが、まるで色即是空、空即是色、話がややこしくなりそうなので、深入りはやめときましょう。


<ふたたび ものとこと>

別の質問というか、確認をします。
 「もの」の助けによらない「こと」
つまり、「ことだけで起こっていること」という「こと」があれば、言ってください。

こうは言えませんか? ものとことは同じではないけど、ものなしでことは考えられない。

こういうことも言えませんか?
ある出来事をクラスとすれば、その出来事を構成しているものを、メンバーといえる
3年2組はクラスです。そのクラスに属する太郎君、博君、静香さんは、メンバーです。
このメンバーは、一緒に歌を歌ったり、サッカーをしたりします。じっとしていません。


<こころ たましいについて こころはどこにあるか?>

そこで、更に質問します。 こころはものですか、ことですか? 魂はものですか、ことですか?
こころはどこにあるとあなたは感じていますか?

私達の思考の旅は、目的地に近づいてきたように思います。

ものと思っていることも、ことであった、ということを私たちは思考の旅で観てきました。

こころというクラスは、どのようなメンバーで構成され、現象しているのでしょうか?
私というクラスは、どのようなメンバーで構成され、現象しているのでしょう?

<こころとわたし>
私のどこか(心臓とか大脳)に心がある、というのが今までの多くの人が考えていた常識です。
ところが、私のほうが、あるいは、心臓や大脳や皮膚、筋肉が、心のメンバーである、あるいは大いなる心があって、その大いなる心のどこかに私があるというみかたもできるのですね。

こういう見方を、全体論、システム理論といいます。


<環境と私、生態学

皮膚や筋肉がこころというクラスのメンバーで、こころは出来事であるという見方ができるということを
具体的な事例を持って、考えて見ましょう。
 
○計算
心の働きのひとつとして、考えることがあると思います。計算するということも、考えることの一部ですね。
例えば、算数の九九をやってみましょう。私たちは学校で九九を練習したので、問題を言われるとすぐ答えが出ますね。
七ハ、五十六 八九、七十二
日本人の子供たちは、九九つまり一桁同士の掛け算を即座に言えるよう練習しますが、インド人の子供たちは、二桁同士の掛け算を、丸暗記します。
例えば、11かける11なら私達も、121といえたりします。12かける12なら144ですね。
では、18かける18を即座に計算してみてください。
そろばんをやったことのある人は別ですが、多くの日本人は、この計算をするには、紙と鉛筆が要ります。
たかが二桁の計算ですが、その計算のためには、大脳だけでは行えません。
鉛筆を持つ手が、手を動かす筋肉が、姿勢を保つ筋肉が、紙と鉛筆が、紙を置く机があって計算ができます。
つまり、計算あるいは計算するこころというのは、できごとで、その出来事を支えているメンバーに、筋肉や、鉛筆、紙、机といった外部環境も参加しています。

○人工頭脳とベルンシュタイン問題
 二桁の掛け算の計算であっても、その作業には、姿勢を支える筋肉や、腕を動かす筋肉、机、紙、鉛筆などが参加し、大脳だけでなく、外部環境を含めたシステムで計算という出来事を生じているといえることを見てきたわけですが、別の意味での計算、例えば、簡単な動作、蛇口をひねって、コップに水を入れて、飲むといった動作の計算を、大脳だけに任せると、とても難しい計算になってしまうそうです。というのは、私たち人間や動物はロボットと違って、各関節に自由度というものがあり、どの角度で、どれくらいの力で腕を動かし、蛇口をひねり、コップを持ち、という動作を行うかの計算をいちいち動作の度に、大脳だけで行うと、とてつもない複雑な計算になるそうです。それを難なく私たちはやっています。
 私達が難なく動作ができるのは、動作の計算を、大脳だけでなく、システム全体で行っているからだといわれています。
 人工頭脳の研究過程でわかったことなのですが、賢すぎる人工頭脳は、入ってくる情報の演算処理に時間がかかって、かえって動けないそうです。

<おさらい>
 今までの事を簡単におさらいして見ましょう。
 最初、ものごとという言葉から、名詞で表現される言葉を「もの」と「こと」に分類しました。
 分類した上で、実は、ものと思っていたものが、ことであり、ことはもの無しではありえないことを考えてきました。
 この世の中の物事が、クラスとメンバーの「階層構造」になっていることや、仏教の「析空観」などの紹介もしました。
 
 最近複雑系という言葉をよく聞きます。
 複雑系を現す特徴として、全体は部分の総和以上である、という事柄があります。

 ものとものの関係、あるいはものとことの関係は、単に部分と全体、階層構造になっているだけでなく、先ほど言った、「全体は部分の総和以上である」といった関係があります。
 
 例えば、炭素や酸素、水素それぞれには、人を酔わせる作用はありませんが、それらのものが組み合わさってクラスを形成し、アルコール基というものごとを現象させると、人を酔わせる作用が生まれます。

 最初、例文の中から、電話、コンピューターなどを「もの」に分類しました。
 ずいぶん昔、あるCMのキャッチコピーに、「冷蔵庫、電気が無ければただの箱」というものがありました。
 電話機もそうです。コンピューターもそうです。電話機は、通信という出来事のシステムの中に組み込まれてこそ電話機なのであって、電話機だけを目の前に持ってきても、役に立たないただの物に過ぎません。

 私達の体、臓器についても同じことがいえます。臓器移植が行われるようになって、心臓とか、腎臓とか、まるで独立した臓器のように受け取ってしまいますが、からだというシステムに組み込まれてこそ、心臓は心臓の働きができるのです。 同じことを、大脳についてもいえます。大脳もまた、からだというシステム全体に組み込まれてこそ、大脳の働きができます。
 
 私たち個人、丸ごとのからだについても同じことが言えます。私たちは、一応、皮膚によって、他の人や外部環境と区切られていますが、閉じているわけではありません。開かれていて、システム・生態系の中に組み込まれていて、私達個々人の働きができます。

 システムの中に組み込まれる、あるいは「開いている」とはどういうことをいうのでしょう。 
 このことを語り始めると、今回は時間が無いので、次回の課題としましょう。

<今までの常識とは違うものの見方のメリット>

ものと思っていたことが実はことであり、ことはもの無しではありえない、という見方のメリットは何でしょう。
生老病死あらゆる分野において、メリットがあります。
全体論に基づく生活、医学、リハビリ、心理学、介護など、すでに実践されていますが、例えば、外部環境と私はつながっているんだ、システムを形成して、計算したり、考えているんだということを実感すれば、環境との関わりも、今までとは違ったものごとになると思います。
 
個々の事例についても、今個々で語るには、あまりに時間がありません。これも次回以後の課題といたしましょう。

最後に、析空観を表しているといわれる和歌を紹介します。
歌った人は、平安末期から鎌倉初期の時代の僧侶で、「愚管抄」の作者慈円です。

引き寄せて結べば柴の庵にて 解くれば元の野原なりけり

では、観察に出かけましょう。