往生道

「意馬心猿」という言葉がある
意識は荒れ狂う馬の様、心は酔っ払った猿の様
という意味らしい
実際、瞑想をして、自分の意識や心を観察すると
一貫性や持続性を維持するのは難しく、自由意志の存在を疑ってしまう
 
そんな弱さを知っているから
「臥薪嘗胆」
ある決意を持続させる為、薪の上で寝たり、苦い胆をなめたりする
つまり行為の持続によって、決意を持続させる
 
と同時に、文化や習慣の力は侮れない
少々練習すれば、日本人だってナイフやフォークをうまく使うが
ニワトリの声は、コケコッコーと聞こえ、
クックドゥドゥルドゥとは聞こえない
 
色んな分野で「ありのまま」という言葉がよく使われるが
一体どういうことを「ありのまま」というのだろう
 
私達は予見とか主観とか取り除くことが出来るだろうか
出来ないとあっさり決めて、プラグマティズムで、
より有効なものの見方を採用すればいいのかもしれないが
その有効を決める決め手にも、予見とか主観が混じる
 
予見とか主観が混じることを自覚して
自己責任であれこれ眼鏡をかけてみて
何らかの眼鏡を選んで世界を観るしかないように思う
 
キリスト教であれ、仏教であれ
「他力」「絶対帰依」の人々は、
あるいは今流行のスピリチュアルな人々は
眼鏡をはずせるといっているのだろうか
 
スピリチュアルな人々の中でも
眼鏡をかけていて、眼鏡をかけている自覚の無い人や
眼鏡をはずしたつもりでも、コンタクトを入れていることを忘れてしまっている人が結構いるように思う
 
 
眼鏡の選択と同時に
次には、どの眼鏡をかけるにしても、
じっくり観続けること、目を逸らしてはいけないことがあると思う
それは、自分にやがてやって来る死をみつめるという事だ
 
かつて死が身近にあったときには、否応無しに、
その死をきっかけに、自分の死をみつめたことだろう
 
ところが、私達は、私達の日常生活の中から死を排除してきた
そして、死についての智慧も忘れてしまった
 
モルヒネが採用される以前にも
モルヒネ以外の鎮痛手当てがあった
そのことを忘れている、あるいは消し去った
 
枯れるようにして人が死んでいく過程をみつめ
そこから学ぶことを忘れてしまった
 
あるがままという言葉は難しい
あるがままと覚悟して、
逆に、中心栄養点滴も延命治療も受け入れる人は、大した人だと思う
 
と、なんやかんやいいながら、(混沌とした?)世界は変化していく
諸行無常
混沌としているのか、秩序があるのかようわからん
いやそれ(混沌か秩序か?)もわたし次第?