私は、「心」のどこにあるのだろうか?

k1s2010-01-22

安眠法と南無阿弥陀仏の話での抜粋

<人間が生きるということ>
 文明が始まって以来、私達人間は、自分自身のこと、生きるということを考え続けてきました。曰く、「人間とは何か?」「生きるとはどういうことか?」
 神話や哲学、生物学などで、私達人間は、人間についてのそれぞれの考えを述べてきました。その中で、社会学者のゲーレンはこう述べています。「人間は、行為する生物である。」「行為するとは、予見と計画をもって、現実を変えようとすることである。」この考え方が、うまく人間が生きることを表現していると思いますので、このゲーレンの言葉をもとに、話を進めようと思います。
 人間にとって、変えようとする、変えたい現実とは、先ず?自分自身であり、?他人であり、他人の総体としての社会であり、?自然であると思います。
 
<現実を変えようとしても、かわるものでもない>
 変えようとする現実の一番目に、自分自身を上げるのは、自分たちの一生を見ればよくわかります。ほかの動物と比べて、私達は生まれてすぐに、歩くことも話すこともできません。自分で自分に働きかけて、自分の能力を伸ばさねばなりません。又、そういった状態では一人では生きていけないので、社会の中で、他人を頼りに生きていかねばなりません。そこで、他人に働きかけ、社会の有様を変えようともします。そして、そういった人間自体、社会全体自体が、自然界から食べ物や生きる為の材料を得て生きていますし、雨風を避けるために、自然環境に働きかける必要があります。
 そこで、突然仏教の話になるのですが、仏教とは何かという問いの中に、仏教とは、四法印であるとか、四聖諦であるといわれています。その中で、「一切皆苦」といいます。
苦とは何か、それは自分の思うようにならないことを言うのだ、と仏教は言います。
 
ゲーレンは、人間は、現実を変えようとする生物であるというのですが、その現実は、必ずしも、自分の思う通りになりません。そこで人間は苦しみます。
 
今日は、安眠法の話をしようと思っているのですが、そもそも安眠法を考えなくてはならないということが、苦しみです。自分に働きかけて、眠ろうとするのだけど、眠れない、どうしたら眠れるのか?と安眠法を考える訳です。
 
普通、変えようとして変わらない時、私達はどうしているか?大体は、やり方が間違っていたのではないかと思い、やり方を変えます。自分を変えられる、社会を変えられる、自然界を変えられる、そのこと自体本当にそうなのかと考えるよりも、やり方を変えようとします。
 ゲーレンが言っているように、「予見と計画」に従って、変えようとします。
 私達は、自分自身に対して、他人や社会に対して、自然環境に対して、様々な「予見」「予測」を抱いています。
 
 自分自身に抱く予見の一つとして、自分は自分の自由意思で行為している、自分のことは自分で決められるという予見があります。他人や社会に関して言えば、例えば、この世は競争社会だという予見があれば、協力社会だという予見があります。自然界に対しても、自然は人間を養ってくれるという見方があれば、人間にとっては脅威だという見方もあります。
 
<ニーバーの祈り>
 私達は、すべてを自分の思う通りに変えられるわけではありません。そういった体験の中から生まれた祈りの言葉に、ニーバーの祈りというものがあります。
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.
神よ、 変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの心の静けさを与えたまえ。
変えるべきことについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する智慧を与えたまえ。
 
一度、静かな心で、自分自身を振り返ってみて、自分の行為というものが、自分の自由意思で決められているか、よく観ることが大切と思います。このよく観ること、ビパッサナ瞑想といいます。
 キリスト教徒なら、O Godと呼びかけます。浄土真宗門徒さんなら、南無阿弥陀仏と呼びかけるのかもしれません。
 神や仏に対して、神や仏は、この世界のどこにあるの?と、科学教徒の人は問いかけます。世界のどこかに、一部分として、神や仏、あるいは魂、心、精神が存在する、というのも一つの「予見」です。それに対して、私達やこの世界こそ、「精神」のうちのどこにいるの?と問いかけなおすこともできます。それも一つの予見といえば予見ですが、心がこの世界や私のどこにあるのか?と物事をみる見方とはべつに、この世界やこの私が、「心」のどの辺にあるのか?という見方もあるのだ、ということを一度味わってみてください。
 そのものの見方の転換、転心といいますか、回心といいますか、それについては、これまで色々な取り組みをしてきましたし、これからも行います。
見方が変われば、眠ることだけでなく、いろんな行為が変わってくるでしょう。