私の仏教

中学生の頃まで、私にとって仏教といえば、葬式仏教だった
つまり、死んだ人を送る儀式をするところがお寺で、その儀式を執り行う人がお坊さんだった。
そのうち、禅僧といって、お葬式とは関係なく、座禅を組んで、修行に耐えて、何かの境地を目指す僧侶がいることを知った。
 仏教に対してそれくらいの知識しかないまま、19歳の時、知人の旅に付き合って、禅寺に泊まったことがある。
 座禅の指導を受け、禅堂で眠り、禅の食事をした。
その時、「仏教は、何を説いているか知ってますか?」と改めて質問された。
答えられずにいると、「四聖諦、八正道ですよ。高校の倫理の時間に習ったでしょ」と言われた。
 その時は、「四聖諦、八正道」と言うことばだけが印象に残った。
 放浪暮らしを何年かして、故郷に戻り、百姓コミューンを作ろうと思った。
 そうしたら、すでに自分で山を切り拓いて、家を立て、シイタケ栽培をしている人を紹介された。
 生活を見学に行ったつもりが、一緒に暮らすことになった。
 そしてそこで、増谷文雄の著作を知り、「原始仏教」なるものを知った。
 現世利益が仏教ではなく、諸行無常諸法無我を説くのが、仏教だと思った。
以来、私は原始仏教小乗仏教上座部仏教、瞑想、構造主義、認知論にこだわって来た。
「信」よりも「理解」が大切、と思ってきた。論理的思考を身につけようと、努力もした。
自律、自制、自業自得を課してきた。 しかし、、、、、
水面は、キラキラ光るが、水面自身が光っているのではなく、反射している
人間もまた、水面だ ときに光るが、人間自身が光るのではない
生を享けたいじょう、全ての人間に輝いて欲しい、しかし、人間自身が光るのではないのだろう