南無

私達の日常の行動や心の動きをよく観察してみると
多くの時間は、
なんらかの目標、目的、夢、希望、予定などを定め、
それらの実現、達成の準備と努力に使っています
 
そうして、自分の夢や目標が近づいたり、達成されると喜び
一方、思い通りにならないときには
悔やんだり、落ち込んだり、腹を立てたりして、苦しみます
 
そういうことを繰り返しながら
幸せとは、自分の目標や夢がかなうことだと思ったりするようになります

そこで、更に人生の多くを
目標や夢を達成する為の様々な力や技術を
手に入れたり身につけたりすることに費やすようになります。
 
かくして、人生の大半は、何かの為の「手段」になりがちです。
 
若いうちは、何かを達成することが幸せだと信じる力が強いのですが
人生の折り返し点を過ぎると、そうも言っていられなくなったりします。
 
例え本当に何か色々なことを達成してきたとしても
人生の最終にあるものを感じて、色々なことが虚しく感じたりします
 
そこで、ある人々は、安楽死尊厳死を達成すべき目標にしたりします
 
世間には、目標を達成する為の技術について書いた本や
セミナーや学校そして、講師や先生があふれたりします
 
私たちも、より力のある、より適切な技術や講師を求めて彷徨ったりします。
 
この世に、オギャーと生まれた以上は
何らかの目標を設定し、
その目標実現の為に生きるという以外の生き方はできないのでしょうか?
 
何らかの理想を掲げ、その理想と現実のギャップ、劣等感を
感じながら生きるという生き方以外の生き方はできないのでしょうか?
 
そうやって問うているとき
庭の柿の木の実が落ちて、音を立てた
烏が鳴いた