諸法無我の喩え

10月23日の日記に書いたのだが
朝に瞑想をしていて、「虹」と「あぶく(泡)」という言葉に至った
 
それで、絵の作品に捺す落款も、「泡」と漢字一文字にして作ってみた
 
昨夜、増谷文雄氏著書の「仏教百話」 ちくま文庫を読んでいたら
isbn4-480-02018-7
118ページに
五四 無我のことわりを喩えて 
とあり、ゴータマ仏陀が、無我の実感を与える材料として
「泡」を使ったことが書かれてあった
 
相応部経典 二二、九五、泡沫
阿含経 一〇、一〇、泡沫
とある

諸行無常諸法無我にしても、あるいは苦にしても
私達が日常使っている言葉であっても、
原始仏典本来に含まれていた意味を、
私達はどこまで理解できているのだろう
 
日常の具体的な一動作と
諸法無我をどう結びつけて、
私達は、その言葉の意味を実感しているだろうか?
 
苦を劣等感と置き換えること
解脱を、目的追及の棚上げに置き換えることを
○○心理学を通して学んだ
 
安楽死であれ、尊厳死であれ、
それを目的にしてしまうと、亦苦の元となったりする
 
諸法無我であること
泡であることを忘れぬ為に
落款を「泡」とした