わたくしという現象は

 わたくしという現象は、
 仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です(宮沢賢治

 
 青い照明だけを見れば、
 そこに個性や自由意思があるように見えるけど、
 電線や電柱がないことには、青く光れない。
 電池なり、発電所がないと光れない。
 水や石油がないと光れない。

 
 私が重要視する、私の死も、
 わたくしという現象のうちのひとつで、
 無数のつながりがあってのことなのでしょう。

 
 さて、今日はどのように光りましょうか?

社会の課題をビジネスで解決する!


12月2日に、和歌山県男女共同参画センター「みんなに男女共同参画」提案事業
 社会の課題をビジネスで解決する!
 起業家精神(スピリット)育成セミナー
を開催します。

 私たちが色々抱えている課題の解決として、これまでは、世界観の選びなおしという観点から、様々な止観瞑想をお伝えしてきました。

 その実践として、暮らしを選びなおす・起業を共に創造していきたいと思っています。

http://wave.pref.wakayama.lg.jp/news/kensei/shiryo.php?sid=28197

意味がないから、意味がある

 

 時々、朝の寝床で、生きる意味を見つけないと、起きられないときがあります。

 例えば、今日は、山の中の一軒家である我が家の前の道を、数か月ぶりに掃除したのですが、私にとっては意味があることであっても、積もった枯葉の下に住んでいたミミズさんたちにとっては、意味がないというか、破壊活動です。
 
 掃除だけでなく、私の活動は、どれもこれも、さほど意味があることのようには思えないのです。

 掃除しても、そのうち私がいなくなれば、他に掃除する人もなく、また枯葉は降り積もるでしょう。

 現に今こうしてブログに何か書いても、誰かの目に留まるわけでもなかったりし、仮に目に留まっても、忘れ去られることでしょう。

 そんな感じで、朝起きられないときがあります。

 でも、二度ほどの臨死体験がある私には、処方箋があります。

 処方箋A 「意味がないから、意味が生(あ)る。」

 処方箋B 「ともかく、見る前に飛べ。」

 枯葉を竹ぼうきで掃くこと自体は、楽しいです。

内なる時間

 
 NTT東日本によれば、小学生の85%が、公衆電話を使ったことがない(使い方がわからない)そうです。

 我が身を振り返ってみると、

 生まれたときから、時計があるのが当たり前だったので、時間といえば、外にあるものと思い込んでしまっています。
 
 しかも、一方向に、均一の流れるものと思い込んでいます。

 しかし、「時」というのは、それぞれの中に「それぞれの時」があるのが、本来だったと思います。

 外なる時間に合わせる生活を続けるうちに、内なる私自身の時を忘れがち。

 一生にしても、自分なりの一生があったのに、学校などへ行くようになって、

 年齢の横並びが、当たり前と思う傾向があります。

 これは、英語などを習ううちに、
 
 過去形、現在形、未来形という時制の表現に馴染んでしまったことも関係しているように思います。
 
 
 ところで、公衆電話の使い方を知っていても、番号を覚えていないとかけられませんね。

不良成人学校8月


 「生きる」ということは、(数えきれない諸関係に包まれた途上の私が、)目の前の課題にどう対処すべきか、自分で考え、決断し、行動し、結果を受け取り、次の課題に向き合うことの連続です。


 私たち人間も、ほかの動物たちと同じく、基本的には、生まれながら身についている無条件反射によって活動します。(例えば、言葉の介在を必要としない消化や排せつ、体温調節。免疫。) と同時に、ほかの動物たちとは違って、生後に学習した知識と反射行動によっても行動します。 人間は、「ことばや数式」を使ってあれこれ考え、火を使い、道具を発明し、使います。自動車を運転し、携帯電話やお金を使います。世界観や価値観をめぐって戦うのは、地球史の中で、人間だけです。


 現在、地球人口は、約74億人といわれます。しかし、すべての人が、生き甲斐ある創造的人生をあゆんでいるわけでもありません。環境破壊、貧富の格差拡大、戦争、疎外、孤独、虚無感など多くの課題があります。また、「一切皆苦」という仏教の言葉があるように、いつの時代にあっても、生老病死や家族・人間関係、性差から生まれる苦しみは、一生の課題です。
 

 私たち人間は、課題を前にして、経験から学び、解決法を色々工夫してきました。今もその途上です。 その工夫の一つが、知識と論理と技術の集積である「科学諸学」と「瞑想」です。
(科学諸学:医学全般、社会心理学、行動学、生態学文化人類学言語学社会学などあらゆる学問)


 「瞑想」は、非日常非現実的な世界に遊ぶことや無念無想になることではなく、目の前にある課題を解決する「集中力」と「智慧」を生み出す自覚的な実践のことを言います。


 課題を解決するには、課題と向き合う集中力と丁寧正確に観察する観察力が必要です。課題は、一因一果といった単純・簡単なものではありません。 古今東西、瞑想と名付けられたものはたくさんありますが、瞑想は、おおよそ「集中」と「観察・思考」からなっています。集中する状況を生み出す過程、知覚を調整・階層化する過程を「止観瞑想」では、止・samathaといい、調整・階層化された知覚で思考する過程、その思考の過程を観察する過程を観・vipasyanaといいます。


〇なぜ「止観瞑想」か?
 「科学」と「瞑想」の関係からいうと、科学も集中力をもって、この世界を観察し、正確なデータを集め、推論することが基本です。科学技術の発達により、かつては人間の目では直接観察できなかった細かなことや遠くのこと、身体の内部などが観察できるようになりました。(電子顕微鏡電波望遠鏡MRIなど)


 しかし、科学によって唯一絶対の真理・解決法が見いだされるわけではありません。そのよりどころとする前提理論や世界観によって違う観察・仮説・結論が導かれます。例えば、水俣病の原因が有機水銀であることを、行政は最初は認めませんでした。宇宙の歴史は、138億年といわれますが、いつ生命が誕生したのかは、今も謎です。


 その科学を観察し、よりどころとなっている知覚、言語、理論や世界・人間観を観察するのが「瞑想」です。ともすれば、科学は自らの観察・認知の能力の限界を忘れがちになります。人間の感覚・認知過程を観察し、限界を自覚させるのが瞑想です。導かれた結論に対し、本当にそれでいいのかと問うのが瞑想です。瞑想とは、信じて疑うことのない自明の常識への問いかけです。課題解決において、今なお世間の常識は、自覚のないままの要素論・二元論であったり、実体論であったりします。
 「全一」の「一」と、「一、二、三、四」の「一」の違いが分かっていなかったりします。
一神教の「一」は、全一の「一」であり、一、二、三の「一」ではありません。)


〈止・samatha・シャマタ〉について
 息を整え、姿勢を整えることで、物事に集中し続ける状態をつくりだすことができます。
 意識が今ここに集中することで、過去や未来への思いがなくなり、悔恨や不安といった感情が消えていきます。身体的な痛みに関しても、今ここの痛みだけに限定されていきます。
 一番基本的な方法は、自分の息を見つめ、吐いているときは、「吐いている」、吸っているときは、「吸っている」と心の中で唱えます。意識的に、息を長く深くしようとはせず、みつめるだけでいいです。見つめるだけで、自然に深く長い息になります。姿勢が整っていきます。

 呼吸の過程を余すことなく見ることができるようになったら、次は認識や行動が生まれる過程を余すことなく見つめます。(原始仏典・四念処経 般若心経・色受想行識)

 坐り方については、背筋が伸びて、余計な力が入らない坐り方なら、どのような坐り方でもいいです。結跏趺坐とか半跏趺坐といった坐り方は、よっぽど下半身が柔らかくて坐りなれている人以外は、選ばないほうがいいと思います。苦行ではありませんので、楽な坐り方がいいです。岡田式静座法は、正座の姿勢で行います。(より細かな実践法は、対面でお伝えします。)


〈観・vipasyana・ビパッシャナ〉について
 意馬心猿ということばがあります。私たちの意識や心は、荒れ狂う馬のよう、酔っぱらった猿のよう、という意味です。私たちの意識の流れや行動を一日中観察してみると、自分の自由意思で、意識的に考え事や行動を起こしているようでいて、実は外界からの刺激に、習慣的、機械的に反応していたりします。例えば、「母語を使って考え事をする」、「何かに腹を立てる」といったことは、習慣的な学習行動です。時間が、過去現在未来と均一に流れていくように見えるのも、過去現在未来という時制のある母語や時計時間を通しての条件反射づけられた時間感覚です。名づけられたものが、そこに実体としてあるかのように思ってしまう素朴実在論も、条件反射づけられた強力な錯覚です。

外界からの刺激とそれを処理する感覚や理論や世界観を階層的に整理して、集中的に自分の課題に向き合い続けることを、「観」といいます。(道元禅師の只管打坐、ベイトソンの精神の生態学など)


8月の「不良成人学校」は、久しぶりに止観瞑想実践講座を行います。参加費無料です。
日時 2018年 8月26日 日曜日 ?午後2時より ?午後7時より
場所 NPO熊野みんなの家 0735−30−4560
ゆったりとした服装でお越しください。

今を取り戻す2 社会生活と自然生活

 「人間」という漢字が示すように、私たち人間は、人の間に生まれ、育ち、旅立っていきます。人間が人間であるためには、社会生活は欠かせません。 その社会生活も、大自然あっての社会生活です。


 人間の社会生活は、全生命、全存在によって営まれる自然生活という大きな海に浮かぶ船のようなものです。 しかし、乗っている船が大きくなるにつれ、船が大海に浮かんでいることを忘れてしまい、海は単なる航路(資源)と思うようになったりします。 全自然生活の中に社会生活が浮かんでいるのに、社会生活の一部に自然生活があるかのような錯覚に陥ります。社会生活と自然生活を並列に見たり、対立的に見たりします。しかし、先ほど言ったように、全自然生活の中に社会生活が浮かんでいます。


 息をする、眠る、食べる、消化する、排せつする、歩くといった生命活動は自然生活です。どのようにして、食べ物を得て、どのようにして食べるのか、あるいは排泄するのかは社会生活です。暑さ寒さ対策で衣服を身に着けるのは自然生活的ですが、ドレスコードは社会生活でしょう。

 ことばを使い、思考するというのは、社会生活のようですが、これは自然生活よりもっと大きくて広い宇宙生活なのかもしれません。


 社会生活には社会時間があり、自然生活には自然時間があります。江戸時代のころは、日本社会の社会時間とヨーロッパの社会時間は別でした。ところが、商品経済が発達し、グローバル化した現在では、世界中同じ時計を使った時計時間という一つの社会時間に従って生きている人がほどんどです。


 自然時間のほうは、現在も、バクテリアと昆虫と植物と動物など、それぞれの内なる時間で生きています。バクテリア、ねずみ、象の一日はそれぞれ違う一日でしょう。人間は、自分の中にある自然時間を忘れがちです。仕事を終えて家庭に戻っても、テレビやパソコンをすれば、社会時間(外なる時計時間)の中に組み込まれます。

 社会時間に取り込まれっぱなしにならず、自分の内なる時間を取り戻す手立てとして、瞑想があります。
 出産そのものは、本来自然時間に従って進行しますが、間際になると社会時間が優先されたりします。

 
 産むこと、生まれることと同じく「死ぬこと」も、本来は自然時間のできごと(天命)なのですが、「死」という概念をおそれることによって、社会時間の出来事、つまり外なる時間の中の出来事になってしまったりします。
 逆に、自分の時間、自分の「今」を生きられていない人は、「死」を恐れます。


 人が人に魅かれる、触れ合う、抱き合うというのは、自然生活なのですが、内なる時間を失い、自分の今を忘れてしまうと、「結婚」は、社会時間による社会生活・習慣となります。


 自分の「今」を取り戻し、自分の内なる時間を生きる一つの手立てとして、「飲食」があります。
 急がず、嚥下を感じながら飲食(止観瞑想の止)すれば、「今」を取り戻すことができます。

「いま」をとりもどす


〇再会
 もう一度一緒に居れる「とき」に生(な)ったら、あれもこれも話そうと思っていたのに、いざこうして逢ってみると、二人はただ微笑みを交わす。

 私は、この日のために宿し続けてきたティーカップを本棚の奥から取り出した。ひとり彼女を思い、山を眺め、歌を歌いながら飲んできた紅茶の中からプリンスオブウェールズを淹れる。 彼女は、その山の端を流れる雲を眺め、円を描いて飛ぶ鳥をみている。 風が吹くたびに、木の葉たちが、さざ波のような音を立てる。

 彼女がカップに触れる所作、香りを味わい、唇を当てそっと飲むしぐさなどを見て、会えなかった日々、彼女はこのようなしぐさで生きてきたのだろうなと思い、いまここに生(あ)る彼女をみつめる。

 出会ったときも、彼女は彼女の内なる「とき」を生きていた。社会生活を営む以上、外なる時間制度に合わせたり、しばられたりもするが、「とき」は、それぞれの内に生(あ)る。 それを教えてくれたのは、彼女だ。
 私は、彼女の手をみつめた。 彼女も私も、向かい合って座りながら、静かにお互いの息遣いを感じている。 歳と共に、ゆったりとした深い息になった。 何度も何度も、ため息をついてきた中で、深くなった。 ゆったりとした目立たない息遣いが、この逢えなかった年月の言葉にならないことまでも語っているように感じた。

 長い年月、電話で話すことも、メールで話すこともしなかった二人。しかし今、こうして向き合って座っている、お互いの息遣いを感じている。いつかこの日が生(あ)ることを、ひたすら信じていた。お互いことばで約束することもなかったのに。 それどころか、これほどそばにいて充実し、楽しく落ち着ける人はいないとお互い感じつつ、でもこれ以上会うことは、いまはかなわないと自覚し、離れたのだった。

 再開の日は突然やってきた。夜、ドアをノックする音がする。ドアを開くと、そこに彼女が立っていた。
 そして、彼女は「そのときになったわ。あなたは?」といった。

〇ハーモニー
 星灯りの中、彼女が眠るそばに私はからだを滑り込ませた。彼女は何も身につけていない。長く離れて暮らす以前、掌を重ね合って話したことはあっても、それ以上の肌の接触はなかった。 お互いの肘のあたりが触れ合った。 もうそれだけで、私のからだは震えた。
 そっと抱き合い、足を絡ませた。 彼女の胸が膨らんでいく。 彼女の涙が、私の頬を伝った。 私は彼女の髪を撫ぜ、また仰向けになり、掌を重ねた。 語ろうと思い続けていたことが、遠くへ遠くへ流れていく。 掌の脈動に、聴きいる。 渇いた谷川の川床の下を流れる水の音を聴くように。

 いつの間にか、二人とも寝入ってしまった。裏山の鹿の声で目が覚めた真夜中、彼女も同じように目を覚ました。 優しく抱き合い、私はそっとそっと唇で彼女の唇に触れた。

 「鹿の鳴き声がしたね。」と彼女は言う。 「谷川の水を求めて」と私は応える。「あれからよく聖書に関する本を読むようになったよ。特に旧約をね。 エヘイエ、アシェル、エヘイエ。」 「ヘブライ語だね。」 「うん、あれから、ことばとものごとの見方の関係を考え続けて暮らしてきたんだ。 ヘブライ語で書かれていることを、日本語で表現するのは難しいと思っている。」 すると彼女は小さく口ずさんだ。 「シェマ イスラエル アドナーイ エローヘーヌー アドナーイ エハッド」 「Adonaiアドナイ Echadエハッド 唯一というときの一は、一、二、三の一ではなくて、全体として一つという意味なのにね・・・」とそこまで言ったとき、突然彼女の唇が私の口をふさいだ。 そして、暖かく、甘くとろける感覚が口の中に広がった。そしてそのまま全身に広がった。 私の脱力を感じ取り、彼女は唇を離した。