ゆったりした時間 ダイアローグマッサージ

 「止観瞑想」を知る前は、「時間」というのは、(地球上では)一方向に、均一に流れると思っていました。止観瞑想を続けるに伴って、「時間」にも内外色々あり、色々な時間がひとつに重なっていると思うようになりました。


 止観瞑想を始める前は、一日24時間のうち、午前7時から午前10時間までの3時間も、午後8時から午後11時までの3時間も、同じ3時間であると思っていました。(外にある時間)


 確かに数量としては、同じ3時間、180分、10800秒です。しかし、植物にとって、午前7時からの3時間と午後8時からの3時間は、同じではありません。 午前7時からの3時間は、光を浴び光合成する3時間(時空間・内なる時間)です。


 そもそも、「同じ」とか「違う」ということばを使うときは、その意味や使い方を決めないといけません。何をもって、何を基準に同じというのかを決める必要があります。


 植物にとって、陽の当たる3時間と陽の当たらない夜の3時間では、数値、数量、長さとしては同じであっても、生きられた時間としては、客観的にも同じではありません。


 昭和29年生まれの人が、60年後に同窓会を開きました。戸籍上の年齢、生後経過した年数はほぼ同じであっても、生きられた時間は同じとは言えません。(外で流れた時間は数値として同じだけど、生きられた内なる時間は質が違う。)


 また、3歳児の春夏秋冬の1年と、20歳の1年、80歳の1年も、数量としては、365日×24時間×60分は同じですが、生きられた時間は同じではありません。 同じ80歳でも、健康な人と病気の人では違うでしょうし、同じ健康者であっても、瞑想者と非瞑想者では、同じではないでしょう。 呼吸の数や質が違うと思います。


 ネズミの1年と象の1年が違うように、呼吸や心拍数、分泌されるホルモンが違えば、生きられる1年は違ったものになります。 80歳でも若々しい肌の人がいますし、50歳でも老化の進んだ肌の人がいます。


〇瞑想者の時間 外なる時間では みんな同じ歳 降り積もる時間

 普通、年齢を尋ねられると、日本では、戸籍上の年齢やこの世に生まれて産声を上げたときからの年数を答えると思います。 瞑想や健康法を実践しても、時間が一方向に流れ、やがて老い、この世から去ることには変わりないでしょう。


 しかし、瞑想者には別の時間の流れがあります。 布が経糸緯糸からできているように、一次元的に一直線に流れるよこ糸と同時に、今ここに降り積もるたて糸の時間があります。 たて糸の時間からみれば、目に見えているものすべてが、同じ歳です。星も草も虫も。 赤血球の中心にあるヘモグロビンの鉄は、恒星が爆発してできたものです。


〇瞑想者の時間 一切皆苦

 仏教の根本的な教えは、諸行無常であり一切皆苦です。 仏教でいうところの「苦」は、自分の思うようにならないということです。 私達人間は、時の流れを止めることも、地殻のプレートの動きを止めることもできません。
 どのような努力もやがては、無に帰っていくことでしょう。それを思えば、虚しいし、苦しいです。


 そのやがて必ず老いて死ぬことの苦しさの解決として、自分の無力を何かで忘れようとしたり、未来に託したり、輪廻転生や来世を持ち出すことがあります。 瞑想者は、忘れようとしても忘れられないことを知っていますし、未来に託す生き方は、今を手段としてしまい、今ここを生きていないような生き方になりがちと知っています。 瞑想者は、時間が一方向に流れることを否定しません。 ただ、そのような時間感覚や認知や思考が、自分が使っている言語と深い関わりがあることを知っています。


 私たち人間は、ことばという記号を使って、ものごとを認識したり、考え事をしたり、情報を伝えあいます。私たちの言語には、「線条性」という制限があります。一行ずつしか表現できません。 線条性という制限のあることばでは、ものの見方は、要素論になりがちですし、時間を一次元的に一方向にのみとらえがちです。(外なる制度時間の必須条件)

 一切皆苦です。 苦でないものは無い、と心底納得すれば、苦ではないものを求めることもなくなることでしょう。

感受性促進ダイアローグマッサージ 6月16日土曜日
 那智勝浦町市野々 NPO熊野みんなの家 にて

ダイアローグマッサージ 「不良」成人学校

 


 あなたは、「マッサージ」ということばから、どのようなことを思いますか? あなたは、あなた自身の限られた体験を振り返ることでしょう。
 (そして、それは自覚のないまま編集され、改変された体験です。)


 「マッサージ」ということば(記号)の一般的な意味は、「治療、健康増進、リラックスを目的とし、からだに触れることによって、血行・リンパ・気の流れをよくし、凝りを解消すること」 でしょうか。


 マッサージには更に広くて個別な意味があります。ベビーマッサージや、瞑想の自按摩。太極拳推手。ハワイのロミロミの先生から、「マッサージは、ダンスでもある」と教えて頂きました。 ダンスは、マッサージであり、瞑想ともいえます。


 私たち人間は、「言葉」によって、ものごとを抽象化して思考し、知識を集積し、沢山の情報を伝えあい、文明を発達させてきました。


 視力が弱くて「言葉」を知らない新生児にとっては、掌(てのひら)や唇や肌が、世界に開かれた窓です。 彼らは深くて冥(くら)い世界に身を任せ生きています。 そして、大人にとっても、肌や筋肉は、ひかりの当たらない世界を感じ取る重要な媒体です。(平衡感覚器官は、筋肉にあります。)


 ただ、使うことばの数量が増加するにつれ、世界は細かく分解され、その情報処理に追われ、大人たちは、いつしか、ことばでは表しえないこと、ことばを超えた世界を忘れがちになります。 皮膚や筋肉は、固くなり、閉じられた窓や壁になってしまいます。

 そこで、ホホバオイルをたっぷり使ったマッサージを、ゆったりとした呼吸で行うと、する人受ける人どちらもが、肌や筋肉の柔らかさが戻り、息が深くなり、背筋も伸び、ことばを超えた世界の感覚も蘇ってきます。


 感受性促進ダイアローグマッサージは、ホリスティックな 我と汝、自己と非自己、言語世界と非言語世界、人間と地球の対話マッサージです。 全身で地球にダイアローグすれば、地球のプレートも動いていると感じ、からだにその痕跡を見つけることでしょう。 (5月に行った記号論プラグマティズム講座の実践編となります。)


日時 2018年6月16日土曜日
 一部 午後1時半より 二部 午後7時より
場所 那智勝浦町市野々 NPO熊野みんなの家 
参加費無料 0735-30-4560

ひとりひとり、顔かたち、感性や人生が違うように、あなたには、あなただけのマッサージ法が宿っています。
それに出会って頂けたらと思っています。
 
接骨院院長・認定心理士 阪口圭一

学んでお徳な、記号論 入門

記号論?なんか難しそう。』 でも、私達の日常の悩みと深い関わりがあります。 

 地球の歴史46億年を、460mの道に例えると、1万年は1mmになります。(ところで、460mを、あなたは体感的にイメージできますか? 今いるところから、どの辺が460mでしょう。) その1万年前、1mm前に、人類は農耕を始め、以後文明を築いてきました。 文字ことばの使用は、数千年前からです。
 
 たった1mmの間に、人類が現在のような科学文明を築くことができたのは、「ことば<記号」のおかげでしょう。
 「ことば<記号」があって、私達は自分の気持ちや考え、様々な情報を、より細かく伝えることができます。
 人間以外の動物も、情報を伝えあうことができますが、人間の「ことば<記号」の情報量とは格段の差があります。
 また、音声のことばは、その場で消えますが、文字記号は、時間や空間を超えて伝わります。

 「ことば<記号」は、同時に、私達の悩み、苦しみと深く関わりがあります。 なぜなら、私達は、この「ことば<記号」を使って、考え、決断するからです。 「ことば<記号」は、便利な道具にちがいありませんが、同時に、私達の行動や考えを縛ります。 どんなに巧みで、詳細で、明解な「ことば<記号」であっても、それは現地ではなく地図だからです。

 外国語を学ぶと、「ことば<記号」が文化を生み出し、その文化が、行動や思考を制限することが見えてきます。

 また、ことばの使用が当たり前になるにつれ、ことばでは語りえない世界を見失っていくように思います。

 より充実した人生を送るには、「ことば<記号」についての学問(記号論)が、ひとの教養・智慧として必要と思います。
 しかし、私達の悩みの解決において、それらの教養・智慧が参照されることは少ないように思います。 記号論言語学を習うのはごく一部の学生のみです。 しかも、実用よりもアカデミックに。
 少ないと嘆いていても仕方ないので、不良成人学校の科目に「記号論」を取り上げることにしました。

 
〇宿題 あなたには、「姓名」があると思います。 妊娠が分かってから名前を付けられた人、出産後名前を付けられた人、色々あると思いますが、名前を付けられる以前、あなたは卵子精子や胎児あるいは新生児として存在していました。では、名前を付けられる以前のあなたは、一体「誰」だったのでしょう?

記号論を学ぶとき、外せないのが、ソシュールとC.Sパース(1839〜1914)です。パースの言葉を紹介します。「ありとあらゆる甘美な哲理の中でも、私という個人の存在は虚妄であるという教えほど高い香気を放っているものはない。」the most balsamic of all the sweet philosophy is the lesson that personal existence is an illusion and a practical joke. これは、仏教の「諸行無常諸法無我・縁起」の「解釈」ともいえます。「一切皆苦」は「一切は記号解釈である」とも。

あることばを使うとき、一般に約束(コードcode)されている意味とは違う意味で使うと、周りから訂正されます。 例えば、幼子がネコを指さして、「わんわん」といえば、周りの人は、あれは「にゃんにゃん」「ねこ」ですよ、と。詩人が、一般に約束されている意味とは違う意味でことばを使うと、さすが詩人だといわれたりします。 あなたは、詩人ですか?

「ことば<記号」は、暗闇を照らすスポットライトだと私は思います。光を当てないと、私達は、世界を見ることができません。しかし、見えないからといって、世界がない訳ではありません。見えてなくとも、「隠れたる世界」「不在の在」に包まれています。そこには、見るのではなく観ること(瞑想)と「信」が大切になってきます。「時間」も「46億年」「1万年」も「生死」も「地球は丸い」も記号であり、私達がそれぞれ「解釈」します。そして、「解釈」の仕方は、唯一ではないでしょう。

日時 2018年 5月26日 土曜日 午後1時半より
場所 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々 NPO熊野みんなの家
0735−30−4560

朝、目覚めてすぐ、あなたは寝床の中で、何を思いますか? 

はじめに
 私が、この文章を書くきっかけとなったのは、友人のコメントです。私は、コメントの要旨を以下のように解釈しました。
 <日本人は「支配される」ということに余りにも無頓着である。><現代の奴隷は、自ら奴隷になり、しかもそのことに気が付いていない。>
 私もまた日本に住み、日本語で思考し、会話する人なので、「支配(操作・ナッジ・誘導)されることに無頓着であり、しかも自覚がない」という日本人の一人であろうと触発され、日々生きることの思いをまとめることにしました。

 私の場合、「支配」ということばに代わって、「疎外」ということばを使います。 <私は、「疎外する」ということに無頓着になりがちです。 他者や自分を疎外していながら、しかもそのことに気が付いていない。>と。

(「支配される」は受動態であり、「疎外する」は能動態である、という違いはありますが・・・)

〇「支配される」「疎外する」「無自覚・気が付いていない」ということの反対語をそれぞれ考えました。

 「支配される」ということばに対しては、「自由」「創造的」「自律」「(非暴力)不服従
 「疎外」ということばについては、「自分の利益目的の手段にしない」「いまここをいきる」「世界内存在」「縁起性」
 「気が付いていない・無自覚」については、「自覚」「アウェアネス」「マインドフル」「センシティブ」「観」

〇さらに「自由」を、「行動(行為)」に結びつけて考えました。

 ここでいう「行動」とは、からだを動かし、他者や環境に働きかけることだけでなく、行動分析学でいうように、死んだ人にはできないことのすべてを言います。だから、ひとり静かに考えることも「行動」です。

 「自由」とは、多種、多様、階層的な世界観=世界仮説(以下世界仮説と表記します)、理論、具体的な行動の選択肢から、自覚的に選択し、行動すること。
 我が身を振り返ってみれば、自由意志で行動しているつもりでも、実は、環境からの刺激を受けて、無意識的に反応してしまっていることが多いと思います。国家、地域社会、家が規定している文化、風習、価値観、常識、法律などを、そのまま受け入れてしまっていることも多いです。

 「多種、多様、階層的な選択肢から、自覚的に選択し」と述べましたが、そもそも選択可能な選択肢が限られていること自体が、「被支配」であるように思います。 支配するのは、自然の摂理であったり、自然環境、社会的環境です。
 その最たるものが、母国語だと思います。 何語を母国語とするかについては、新生児には選択の余地がありません。
 お腹が空いたからと言って、木質をバリバリ食べる選択肢は、人間にはありません。

〇私たちは私たち自身の、行動選択の基準になっているおおもとの世界仮説を自覚的に選択しているでしょうか?

 アメリカの哲学者ペッパーは a)世界は「要素」で構成されているとするか b)世界を1つの「ストーリー」として語ることができるとするか の2つの基準で、2×2=4通りの世界仮説、1、機械的、要素論的世界仮説 2、有機体的世界仮説 3、形相的世界仮説 4、文脈的世界仮説に分類できるとしました。そして、各世界仮説は自律していて、世界仮説の折衷は、混乱を招くとも言っています。

 世界仮説の選択も、あらかじめその時代の主流となっている世界仮説や生まれ育った風土の世界仮説、育った家庭の価値観によって限られているようにおもいます。
 私が無自覚的に、最初に身につけた世界仮説は、要素論的世界仮説(機械的世界観・素朴実在論)です。

〇私たち人間は、「ことば<<記号」によって文明を発達させてきました。そのことばは両刃の剣。 

 地球の歴史は、46億年といわれています。46億年を、460mの道に例えると、人類が農耕を始めたのが、1万年前、つまり460mの道では1mm前のこと。 文字の使用は、数千年前になります。 この「文字<<記号」のお陰で、私達は文明を発達させてきました。 「文字<<記号」は、時空を超えて、情報・文化・知識を伝えることが可能になります。
 
 ところで、あなたはこの「文字<記号」の弊害、文字による支配についてはどう思いますか?

 テーブルの上にリンゴとみかんとコーヒーカップがあります。 私は阪口圭一です。 こういう表現を繰り返すうちに、目の前にあるリンゴ、ミカン、コーヒーカップ、阪口圭一が、実体としてあるように思います。 リンゴはみかんではありません。 リンゴでありみかんであるような果物はありません。 コーヒーカップは、確かにあります。  しかし、それらは、リンゴとして、ミカンとして、カップとして永遠不滅の実体としてありますか?
 
 ことばを使ううちに、ことば・単語に対応して、ものごとが実体的に、独自に存在しているかのように思ってしまうこと、これはことばの弊害、ことばによる支配であると私は思っています。 実体視がどう弊害かというと、例えば「過去」「現在」「未来」をそれぞれ独立した要素としての時間感覚を生みます。

 要素論的時間感覚では、時間は一方向にのみ流れ、「今ここ」は、何かに向かう不完全な過程に過ぎず、やがて必ず訪れるのは「死」であり、その虚しさ・怖さの反動として、富や権力、名声、賞賛に執着、あるいは、悟り、救済、健康などへの執着を生みます。今ここは、常に何かの過程、手段となり、疎外を生みます。
 (今ここが、常に何かの途上であるがゆえに、突き抜けると、途上がそのまま「永遠」となるのですが・・・)

 実体視はまた、自他、自分と環境の対立感も生みます。 自分を実体視すればするほど、周りの人、周りの環境は、自分の思い通りにならない存在として浮き上がってきます(一切皆苦)。 どんな権力者であっても、小さな歯車でしかなく、自然は利用すべき資源となります。 (大地や海を母というのなら、どうして山を削り、海を埋め立てるのでしょう。)

 しかし、独立したものごとが要素となって、要素が集まってこの世界が成り立っているとみる、要素論、機械的世界仮説が、記号を使う動物=人間のオーソドックスで常識的、多数派的な世界仮説ですね。 臓器移植は、この要素論が前提になっています。
〇ある選択肢が他の選択肢から独立してあるように見えるのは、要素論的機械論的世界仮説を前提としているとき。

 要素論においては、意識と無意識、精神と肉体、感覚と運動、ものとこと、生と死などは、対立した概念です。 しかし、実際生活においては、意識的行動と習慣的行動、生と死は、階層的で、同時性、二重性のものです。 例えば、自動車の運転とか楽器の演奏を、100%自覚的、意識的に行うことはありません。
 芸能、スポーツや武道において、習慣化されたからだの動きが必要で、その習慣化された動きが、新たな創造の障害になったりもします。 (守破離
 母国語以外の言語を学ぶとき、母国語での習慣が他の言葉の習得の障害であったりする(例えば日本人にとって、RとLの違いがむずかしい)と同時に、母国語の習得がしっかりしていないと、新たな言語を獲得することも難しくなります。


〇与えられた選択肢を自由意志で選べば、自由な気がするけれど・・・  操作・催眠・誘導・洗脳・ナッジ アブダクション

 コーヒーにしますか?紅茶にしますか? 自分の好みで選べば、自由な気もするけれど、ミックスジュースを選択するという選択もあれば、自分で淹れるという選択肢もあります。何も飲まず、深呼吸するということもありです。
 要素論的世界仮説においては、他人に働きかけるというのは、つまりは、相手の行動を変えることです、啓蒙という表現を取るときもありますが、別の表現をすれば、「操作」「催眠」「誘導」「ナッジ」です。
 そして、催眠と相手に気づかれずに誘導・支配するテクニックが、限られた選択肢の「質問」や「権威による説得」です。

 与えられた選択肢ではなく、新たな選択肢を創造するには、与えられた選択肢から選ぶという前提とは違う前提が必要です。今ある前提と違う前提を採用するには、帰納、演繹といった推論だけでなく、アブダクション・仮説的推論という推論が必要です。 好奇心や試行錯誤が大切です。

 私の限られた経験ですが、高校生の頃、演繹や帰納という推論は習ったように思うのですが、アブダクションは習いませんでした。 川喜田二郎氏のKJ法を知った後も、それを分類法と思い、アブダクションであることを知りませんでした。
 
 集団の中で、当然自明とされている前提とは違う前提を提案するには、勇気が必要です。 自明とは違う前提を提示する人を、変わり者とか、異端児とか、常識はずれ、時には犯罪者にされるということもあるからです。
 逆に、アブダクションのない推論からは、新しい発想、創造、選択肢は生まれないように思います。


〇クラスでハイキングに行くことにしました。 行く先はどのように決定しますか?

ハイキングの行き先を決めるといったことのレベルでも、前提があり、推論があり、選択肢の決定があります。
 私の経験では、「最大多数の最大幸福」が前提・建前であり、最終的な決定は「多数決」でした。
 今まで、何度となくこういう決定に関わってきて、これまでそれらを疑うことがなかったのですが、果たしてよかったのだろうかと今になって思います。 声にならない声を、支配し疎外してきてはいないだろうか、と。
 あなたは、これ以外の方法を知っていますか? 

〇「コミュニティにおける公共性を考え、実現するには」という集まりの参加者の一人が、自閉症の子どもさんを同伴してきました。

 ときどき、その子どもが自分の興味関心のあることについて、講師に質問します。講師が予定していたプログラム通りに進みません。あなたが、講師ならば、どうしますか?
 あなたにとって、公共性とはどういうことでしょう? 講師の自由、参加者の自由、子どもの自由・・・

 別室で、誰かほかのスタッフが、子どもの相手をする、という選択肢を思うかもしれません。 でも、子どもである彼も、その場にいたいとしたら、どうします。 また、別室や他のスタッフという余裕がない場合などどうしますか?

 最大多数の最大幸福、功利主義という(要素論的な)前提とは違う前提があることを知りました。
 
 その(世界内存在的)前提だと、講師は例えばこういう提案をするのではないでしょうか。
 「さて皆さん、ご覧の通り、講師である私は今困難に面しています。 この困難を皆さんと一緒に解決したいと思います。 どういう選択肢があるでしょう? これこそが公共性について考え、実現する実例と私は思うのですが。」


〇朝目覚めて、寝床の中で、私は呼吸を見つめます。

 私が何かを考える以前に、60兆個の細胞、100兆個の細菌群は、生きて活動しています。考えたり悩んだりする以前に、呼吸しています。心臓が拍動しています。血液がからだの隅々まで流れています。生命の誕生以来続いてきた営みです。

 私は母国語で何か考えます。 母国語は私が作ったものではありません。 発音の規則、単語の意味、構文の規則など歴史の中で形成されたものです。
それらはあまりに自明なことなので、自覚のないまま、言語ルールに従って、私は推論を始めます。
 言語ルールとは、「Aという状況において、Bをすれば、Cという結果になる。」という各自の信念です。 「いまの状況は、Aに近い、だからCを求めて、Bしよう」などと無意識的に言語ルールに従って、行動の選択をします。 言語ルールは、私自身の経験もほんの少し含まれますが、先人が、知識、智慧として伝えてきたことがらの上に成り立っています。

 仏教では、人間の営みに対して「一切皆苦」といいます。 「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」。孤立した「私・我」に「自由意志」があるとは言えない。 そして「一切」とは、「色と受」だといいます。 つまり、私達が言うところの「世界」は、実は「世界と認識」であると。 そして、その「認識」は、世界そのものをとらえきれません。 人間の目は、魚のように360度見えませんし、聞こえる音の範囲も限られています。 私達はいつも「世界」を「解釈」しているのでしょう。 解釈はひとつではありません。 解釈をめぐって、ひととひとが争ったりします。
 世界は一つのストーリーで語れるわけでない、とするのが、文脈的世界観です。 めでたさもちう位なりおらが春。
 そういう風に毎朝自分と語り合いした後、私は寝床から出ます。

うかうか暮らす、あるいは慌てて暮らすと、つい習慣的に、世間的、要素論的な世界仮説とその選択肢を選んでしまいます。 自覚のないまま、他人を操作しようとし、上手くいかないときは、自分の思いのままにならないと腹を立て、苦しんだり、諦めたりします。
生活のリズムは、呼吸とか食事、嚥下が基礎となるので、ゆっくり呼吸し、ゆっくり食事するようにしています。
2018年 4月 649−5302 那智勝浦町市野々3987 阪口圭一

アール・アート・「呼吸」

 私にとって「アート」とは、「疎外のない生き方」を模索し続けることです。

 この世界、私の人生を、目標と手段に分け、他の人や自然、自分自身を、目標達成のための手段にすることのないような生き方、関わり方を模索し続ける事が、私にとってのアートです。
 少なく頂いて、多くをお返しする生き方を模索すること、とも言えます。

 具体的には、息をすること、調理すること、食べる事、歩くこと、人や自然と関わることなどが、芸術の素材となります。
 それは、他者の注目・名声を浴びる手段としての制作活動や作品所有(顕示的消費)と対比されます。だから、私は農民ではないけれど、宮沢賢治さんの「農民芸術概論要綱」に魅かれます。

 日本の古語の自動詞に「ある」があります。漢字で書けば「生る」。「しかある(然)」。
 その「生る」をもじって、私にとってのアートは、「アール(生る)・アート」です。

アール・アート・「呼吸」
 世の中には、古今東西、健康になるための呼吸法とか、霊性を開発し、悟りを開くための呼吸法とか、「手段としての呼吸法」が,数多述べられていますが、アール・アート・「呼吸」は、呼吸そのものが芸術・応答です。
 岡田式静座法や道元禅師の只管打座と、アール・アート・「呼吸」とは同じではないけど通じているように思います。

 岡田式静座法とは、「岡田虎二郎によって創始された修養法」と、ウィキペディアには紹介されています。 瞑想を実践していると、いつともなくどこともなく知ることになるのが、岡田式静座法だと思います。 大正時代に、多くの著名人、華族、軍人、例えば田中正造徳川慶喜渋沢栄一といった人々が、実践しました。 私も、10年ほど前に知り、正座で出来る瞑想法としてとらえていました。
 それが、今年1月、大石誠之助が新宮市名誉市民の称号を得、甥の西村伊作について色々読んでいるうちに、明治期のキリスト者に対する関心が高まりました。 その中で、田中正造、木下尚江、相馬黒光石川三四郎などが岡田式静座法を実践していたことを知りました。
 田中修司著「西村伊作の楽しき住家」の113頁には、<1901年、我が国最初の無産政党である社会民主党が結成された。この政党の結成に参加した中心メンバー6名のうち5名はキリスト教徒>とあります。 気功文化研究所の津村喬氏のブログによれば、岡田虎二郎の静坐法は、クエーカーと深い関わりがあるようです。

 それはともかく、健康の為でもなく、悟りの為でもなく、呼吸そのものを芸術、世界との応答とする集いを開催します。(毎日行っています。) お越しくださいませ。 2018年4月7日 那智勝浦町市野々3987 NPO熊野みんなの家 「不良」成人学校

「生(あ)る」は、疎外しないこと

拝復 ○○ 様 お手紙拝読いたしました。

 ○○さんが、私に対して抱く「違和感」、これは○○さんだけに限らず多くの人が抱くであろう違和感と思っています。 そして、その由来も自分なりには、自覚しています。
 
 その由来のひとつは、「世界観・世界仮説」の違いです。

 日本語であれ、英語、フランス語、中国語であれ、私たちはことばを使って、考え事をします。会話、対話をします。そのことばは、音が集まって、単語となり、単語が集まって文章(主語+述語)となり、文章が集まって、ひとつの文脈、物語、理論、思想、世界観が生まれます。 今も、この文章もそうです。

 こういった単語、文章、物語をもとに世界を見れば、この世界も、それぞれの「(独立した単語)もの(主語)」の集まりのように見えます。 例えば、今目の机の上に、パソコン、ボールペン、コーヒーカップがあります、と単語、文章で言い表すことできます。 世界は色々な「もの」が集まって出来ているという見方が、要素論であり、機械的世界観であり、素朴実在論だとおもいます。 そして多くの人が持っている常識的世界観です。 近代以後は特にそうでした。

 端的に言えば、私は私自身を、(独立した)「もの」ではなく(世界内)「現象(の束)」だと思っています。
 
 いつも、宮沢賢治の詩を唱えています。
「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。」
 その現象は、宇宙全体(無限の縁)が抱く無数の無限の夢の一つの現れ、花、光りと思っています。 
 こういうのを、世界内存在(ハイデッガー)とか、汎在内神論(井上洋治神父)というのであろうと思っています。(あるいは、神秘主義、異端・・・・)

 お手紙に「自己実現、自分の計画、自己満足…という自己の夢を諦め、キリストに見倣って、神の(秘められた)計画実現の人生に参加する方向に切り換えませんか」と書かれていましたね。

 私は、これまで二度、死にかけたことがあり、耐えきれない痛みの中ででもぎりぎりまで「なにがあっても生きていたい」という強烈な意志と共にありましたが、ある一線を越えると、その根源的な生きていたいという意志、力をも諦める世界があることを知りました。
 
 と同時に、そこでは、「ねばならない」が一切ない世界でした。

 ねばならないが一切ない何をしてもいい世界を知ると、ヒトは限りない欲望追究に走るかといえば、そうではないと思っています。
 
 肉体はそのまま残っているのですから、肉体を維持するためには、最低限のもの・ごと(栄養素)を摂取しなくてはなりません。 少なく頂いて、そこからたくさんお返しする、それが二度の臨死体験の後の自分の生き方です。
 
 とはいえ、うかうか暮らしていると、ねばならないが一切ない世界のことを忘れてしまいます。
 
 この世界、時空間を目的と手段に分け、今この時、この場所、目の前の人を、自分の目的達成(偶像崇拝)のための手段にしてしまいがちになります。 それが「疎外」なのではないでしょうか。

 例え、立派な計画や目標であったとしても、今ここを、この場を、ひとを、その計画の手段にしてしまうと、そこは虚無、非生、無生、否生となるということを味わってきました。

 息は浅くなり、速くなり、相手を評価したり、心ここにあらずで、ちっとも今ここを生きていなくて、それでいてそのことの自覚が薄らぎます。
 
 私は、これまで2度(+α)の臨死体験がありましたが、ヒトは必ず一度は体験しますね。
 
 でも一線を越える体験、すべてを諦め、受け入れる体験は、しようと思ってできるものでもないなあ、
ヒトにお勧めできるものでもないなあ と思っています。
 
 せいぜい、自ら息をゆったりして、今目の前の人と、一緒に「生(あ)る」「しかある(然)」かどうかを確かめること、ならできるかな、と思っています。
 
 それでも、ついつい相手の息や、世の中の情報の流れに合わせて浅く、速くなりがちです。

 市野々の人里離れた山の中の一軒家へ、仕事場、生活の場を移して、収入は数分の一になりました。 焚くほどは風が持て来る落ち葉かな と良寛さんの俳句を唱えながら暮らしています。 

 でもこの暮らしもまた、あるであろう神の計画の一つではないかと思っています。
 召されたら、従おうとも思っています。 今のところ、好きなようにしなさいという声がします。
                                              敬具 

西村伊作は、「無宗教」だったのでしょうか?

 ウィキペディアには、<伊作自身は生涯無宗教であった>とあり、文化学院のホームページhttp://bunka.gakuin.ac.jp/にも1946年<無宗教の修養講座「文化教会」を立ち上げ>と書いています。 ここでいう「宗教」とはどういうことでしょう? 伊作は、「無宗教」だったのでしょうか?

 私は、昭和29年生まれです。新宮市の隣の那智勝浦町で生まれ育ちました。青年期の数年間を除き、ずっと「熊野」で暮らしてきました。高校は新宮高校へ通い、その頃、浜畑栄造さんの著書、佐藤春夫の「わんぱく時代」などから、大逆事件と大石誠之助を知り、甥の西村伊作を知りました。

 ウィキペディアには、西村伊作は生涯無宗教であった、とあり、それを鵜呑みにしていました。
ところが、高校の一年先輩である周美さんが、自伝をもとにできた「すべての日々、我に益あり」を歌っていると知り、題名から、果たして「無宗教」であったのかと思うようになりました。

〇私の宗教の定義
  私にとって「宗教」とは、「どう生きるかを考えるとき、拠り所とする最も根源的で、体系的な教え」のことです。 「神」とか「仏」という用語は必ずしも必要ありません。 如何に生きるべきかの論拠において、「この世界の究極の存在は何なのか・存在」について、「この世の一切とは何なのか・関係」について、「人は如何に認識するか・認識」について、当然語ることになります。
 また「死ぬ」とはどういうことか、どう向き合うかについての考えが当然含まれます。

 以上のような私自身のための定義だと、いわゆる「世界観」とどう違うのかということになりますが、世界観と同じといってもいいと思っています。 つまり、ヒトは、無宗教であることはあり得ない、と思っています。
 私にとっての世界観と宗教の違いをあえて言えば、それは「信」だとおもっています。 特別の根拠なしに、原初的・究極的な秩序・美の形成志向を信じるのが「宗教」です。 その「信」は、「不信を含めた信」です。根拠・完成がないという自覚のもとの「信」です。 もしかして、この宇宙には原初的・究極的な秩序・美の形成は永遠にないのかもしれません。 人間には究極的な判断はできないと思っています。 判断できないから、信じる訳です。

        

 さて、自伝「我に益あり」復刻版を読んでみました。 50章からなり、48が、文化学院の再興 49が、宗教と教育 50が、生と死 になっています。そして、424頁には、「文化学院の復興と同時に私は文化教会というものを始めた。これは教会である。けれども今までのどの宗教にもよらない新時代の人の求める教会として作ったカルチュアの教会であって、宗教の儀式とか信条のようなものが何もない。けれども学問や思想や芸術を宗教的の境地へ導くという目的でやる。」と書かれています。
 またさらに
「この教会は私の理想を実現するものであって、私の最後の仕事として私が最も力を入れようとするものである。既成宗教のどの宗派にもよらないけれども、人間は原始時代において既に立派な宗教的の精神を持っている、後世の文明が発達したときの教会における宗教よりはもっと純粋な、そしてもっとほんとうに神をあがめ、自然を讃美する精神を原始時代には持っていた。その原始時代の精神をもう一度復活して、文明の上に立った原始生活、第二の原始生活というものを人間がここに始めねばならぬ、と私は思っている。それで今までの科学も思想も芸術も、そういう宗教的な精神によってやらなければそれに本当の力が与えられず、また人生にその存在価値がないと思う。それなら精神ばかりかというと精神だけでなしに精神と物質との両方の綜合された生活の方法をもっていかに人間が生きるか、この世に生まれて生きている間にいかにすれば最もいい生涯を送れるかということを考える。その全人間生活を考えることが宗教であると私は考えている。(425頁)」とあります。 ですので、私にとって、西村伊作は、無宗教の人ではありません。
 東京の文化学院は2018年3月閉校となります。 熊野に・で 文化学院・教会を♡  阪口圭一

3月10日土曜日 午後1時半より NPO熊野みんなの家で 不良成人学校読書会「西村伊作自伝 我に益あり」を読むを行います。